合気道ひとりごと

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318≫ 意識の間境   

2017-05-04 17:59:56 | 日記
 『建物の内装はどうしようが自由だが、外装は市民の共有財産だから所有者といえども好き勝手にはできない』。これはまちづくりの勉強をしていたころ、まちの統一感をテーマにしたときの講師の話です。わざわざこんなことを言わなければならないほど、繁華街には様々な色と形があふれています。後に一部の都市で施行された景観条例等は心地よい社会を築くためには一定のルールに従うことが肝要であることを示しています。

 さてこの教えそのものもさることながら、自分の守備範囲を明確に示している点が武道と通じると感じたりしたものです。自他の間境はどこか、内と外との心構えの違いは、など考えさせられます。

 このごろは逆に自分と他人の義務や権利の境を曖昧にするような意識が蔓延しているように思われます。一番わかりやすいのは話し言葉です。たとえば『~したい』と言えば済むものを『~したいかな』とか、『~のほうが良いと思う』と言うべきところを『~のほうが良いのかなと思う』などのように『かな』を濫用する人が多く見受けられます。『かな』は主に外部の事象の可否が不明なときに使う言葉であって、自分の判断について言う言葉ではありません。間境を大きく越えているのですから。
 
 ましてやそれを、一般人ならまだしも社会的責任の大きい人までが公的な場でそのような中途半端な日本語を使っています。この現象はいったいどこから来るのでしょう。何事かを言い切ることが不安なのでしょうか。断定したことが間違っていたらみっともないとでも思っているのでしょうか。このように、心構えや料簡というものは態度、行動に表れてきます。そのためにも言葉遣いには気をつけたいとそう思います。

 武道では『出たほうがいいかな、引いたほうがいいのかな』などと考えている暇はありません。間合いの良し悪しを瞬時に判断する能力を身につける、それこそが稽古の目的です。もしそれが誤っているときその責は自分が負う、武士道などと力まなくてもそれが人間として当たり前の生き方です。合気道が現代武道として期待されていることのひとつに、このような人格形成の側面があるのではないでしょうか。

 間境といえば、このごろは国境という意味でボーダーと言ったり、その自由往来をボーダーレスと言ったりします。武道的価値観や感覚の中で生きている者(わたし)にとってはこのボーダーレスというものに若干の違和感を持ちます。玄関の敷居を平気で踏みつけるのに似た情景に映るからです。内と外の異なる価値観を一緒くたにすることが善であるかのごとき言説は、かえって多様な価値観を尊重する思潮にそぐわないものでしょう。

 オランダに入国した移民だか難民が『自分たちにもオランダ人と同じ権利を与えよ』とデモをしたというニュースが以前にありましたが、ご存知のとおり『世界は神が造ったが、オランダはオランダ人が造った』と言われるくらい、彼らは苦労して低湿地を干拓し今の国土を得たのです。その歴史を知れば難民といえどもオランダ人に敬意をはらうべきであることは言うまでもありません。

 間境ということを考えていてそんなことを思いました。