前回からずいぶん間があきました。このブログの今後の方向性について考えていましたが、いまだに結論は出ていません。その間、N氏から頂いたコメントで、要は最大公約数的な考えや示唆はいらない、独自の理論にこそ値打ちがあるというご意見に接し、いささか意を強くしています(ちょっと都合よく受け取り過ぎかな)。それを踏まえ、今回はいま思っていることを率直に述べてみようと思います。
さて、合気道を始めたきっかけは何だったのでしょう。これはわたしが多くの合気道愛好者に聞いてみたいことのひとつです。わたしの場合はケンカに強くなりたかったから、と実に馬鹿っぽくて単純な理由です。もっとも合気道がケンカに強くなるためのベストチョイスであるかどうかは一考を要します。ちなみに黒岩洋志雄先生は、殴って相手の顔に跡が残ると警察ざたになったときに言い訳できないので、そうならないで済む方法を求めて合気道を始めたそうです。まあ、師弟共々ろくでもない理由ではありますが、かつてはそういう若者が多かったのではないかと思います。
そのようなひと昔前の好戦的若者は脇に置いておくとして、現代において一般的には、健康のために体を動かしたい、精神修養に役立つかもしれない、同好の士との協同活動が楽しい、等々、他の多くの趣味的スポーツとあまり変わらない目的で始める人が多いのではないでしょうか。終わった後の一杯目のビールが美味いというのもあるかもしれませんが、それはまあ一義的な目的ではありませんよ。
合気道を始めたきっかけとして基本的にはそれでまったく構わないのですが、それでも選択の対象がなぜ合気道なのかという疑問は残ります。世の中にはとっかかりから合気道よりも楽しくて面白いスポーツや娯楽がいくらでもあるからです。一通り覚えるまで時間がかかるし、技をかけられれば痛いし、試合がないから努力の成果を客観的に表す手段がないし、一つ間違えば自己満足に陥るような武道です。それでも多くの愛好者がいるのも事実です。いったい何が魅力なのでしょうか。わたしの想像力は上に述べた程度のものなので、だからみんなに聞いてみたいと思うのです。
前回のタイトル『使い物になるか』ならないか、これは黒岩合気道を考える上で重要なコンセプトです。コンセプトというのは重要に決まっていますのでこれは過剰な表現ですが、コンセプトを感じ取れない合気道も多いので、あえてそう言います。コンセプトを感じ取れないとは、動きを見てもその動きの意味や目的を理解できないということです(こちらの理解能力不足があるかもしれませんが)。ただ漫然と、昔からそうやっているから、というふうな、ある意味幸せな合気道です。
人は時として無目的で意味のわからない行動をとる場合があります。たとえば急に大声で叫びたくなったり駆け出したくなったり、駅のホームで傘でゴルフスィングをしたくなったり(あ、これは違いますね)。しかし、無目的といっても、それは本人が気づいていないだけで、体なり心なりが無意識的に何か(ストレス発散だとか)を求めているのかもしれません。
ここで言いたいことは、無目的のように見えることでも陰に何らかの目的、意義があるのにそれが感じ取れない、そのような健康体操レベル(それはそれで良いのですけれども)の合気道が多いように思われる、そういうことです。つまり、なんで武道であるところの合気道を始めたの?という質問に戻るのです。
このあたりのところをもう少し理解した上で新たな方向性を示したいと思います。
さて、合気道を始めたきっかけは何だったのでしょう。これはわたしが多くの合気道愛好者に聞いてみたいことのひとつです。わたしの場合はケンカに強くなりたかったから、と実に馬鹿っぽくて単純な理由です。もっとも合気道がケンカに強くなるためのベストチョイスであるかどうかは一考を要します。ちなみに黒岩洋志雄先生は、殴って相手の顔に跡が残ると警察ざたになったときに言い訳できないので、そうならないで済む方法を求めて合気道を始めたそうです。まあ、師弟共々ろくでもない理由ではありますが、かつてはそういう若者が多かったのではないかと思います。
そのようなひと昔前の好戦的若者は脇に置いておくとして、現代において一般的には、健康のために体を動かしたい、精神修養に役立つかもしれない、同好の士との協同活動が楽しい、等々、他の多くの趣味的スポーツとあまり変わらない目的で始める人が多いのではないでしょうか。終わった後の一杯目のビールが美味いというのもあるかもしれませんが、それはまあ一義的な目的ではありませんよ。
合気道を始めたきっかけとして基本的にはそれでまったく構わないのですが、それでも選択の対象がなぜ合気道なのかという疑問は残ります。世の中にはとっかかりから合気道よりも楽しくて面白いスポーツや娯楽がいくらでもあるからです。一通り覚えるまで時間がかかるし、技をかけられれば痛いし、試合がないから努力の成果を客観的に表す手段がないし、一つ間違えば自己満足に陥るような武道です。それでも多くの愛好者がいるのも事実です。いったい何が魅力なのでしょうか。わたしの想像力は上に述べた程度のものなので、だからみんなに聞いてみたいと思うのです。
前回のタイトル『使い物になるか』ならないか、これは黒岩合気道を考える上で重要なコンセプトです。コンセプトというのは重要に決まっていますのでこれは過剰な表現ですが、コンセプトを感じ取れない合気道も多いので、あえてそう言います。コンセプトを感じ取れないとは、動きを見てもその動きの意味や目的を理解できないということです(こちらの理解能力不足があるかもしれませんが)。ただ漫然と、昔からそうやっているから、というふうな、ある意味幸せな合気道です。
人は時として無目的で意味のわからない行動をとる場合があります。たとえば急に大声で叫びたくなったり駆け出したくなったり、駅のホームで傘でゴルフスィングをしたくなったり(あ、これは違いますね)。しかし、無目的といっても、それは本人が気づいていないだけで、体なり心なりが無意識的に何か(ストレス発散だとか)を求めているのかもしれません。
ここで言いたいことは、無目的のように見えることでも陰に何らかの目的、意義があるのにそれが感じ取れない、そのような健康体操レベル(それはそれで良いのですけれども)の合気道が多いように思われる、そういうことです。つまり、なんで武道であるところの合気道を始めたの?という質問に戻るのです。
このあたりのところをもう少し理解した上で新たな方向性を示したいと思います。
「いざとなれば人を殺傷できる程の実力が欲しい」
という実に物騒な動機でした。
それは自身の恵まれなかった体格や幼少期の惨めな体験から来たものかもしれません。
何故合気道なのか?という事に関しましては
合気道を始めて一年後に出会った、生涯の師となる師範が人間としての魅力に溢れていたからです。
それから先は師を追い求める旅が始まりました。
「殺法を教えて下さい」
「なら合気道を辞めなさい」
掻い摘んで言えばこのやり取りが全ての始まりだったと思います。
何が魅力か?。師匠があまりにも魅力的すぎた。
これが私の回答になります。
回答になっていないかもしれません。
そして現在の一般的な合気道行者と比べて、
私はかなりマイノリティな存在だとも自覚しております。
勿論、実力の上でまだまだ未熟者であります。
それでも噛み締めるほどにもっともっと合気道の奥に到達したいと願う者です。
天の浮橋まで。
合気道を始めたきっかけや魅力ある師との出会い、そしてまた行く末への期待など、わたくしの有り様と随分似ているような気がします。
もちろん似ていなくてもそれは一向に構わないのですが、やはり過去、現在、未来それぞれにおける自分というものをしっかりと把握あるいはイメージできていることは大切だと思います。それによって、何をどうすべきかということは自ずとわかってくるでしょう。
と言いつつ、わたくし自身まだまだ確定的なことは得られていません。だからこその稽古なのでしょうね。