合気道ひとりごと

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270≫ あらためて黒岩合気道 その4

2015-07-13 15:09:41 | 日記
 今回は《虚と実》です。前回言ったように合気道の稽古は実戦の雛形ではありません。あくまでも技の練習を通じて武道たりうる動きを身につけ体を練ることが目的です。そこで表現される稽古形態がつまりは《虚》です。それに対して、実際に使いものになる技が《実》です。ごく簡単に言うと、腕などをつかまれてやるのが虚、自分から相手をつかんで技にもっていくのが実です。

 気を通せばつかんだ手が離れない、などというようなファンタジックな技ができない(わたしのような)普通の人が敵意ある相手を前にして実際に技を施す際にどちらを選択するか、その分水嶺が虚と実の境目です。ちなみにわたしの住まいする県から隣りの県に行くときに、奥羽山脈の分水嶺を越えますが、川の流れが反対方向になることを頭ではわかっていても感覚的にはすぐになじめないことがあります。虚と実にはそれくらいの差はあるような気がします。

 虚と実というと、いかにも虚は偽物で実が本物というニュアンスがありますが、決してそうではありません。武術技法としては最終的には実に向かっていくべきなのでしょうが、稽古法として虚には虚の大事な働きがあり、実には厄介な部分もあります。虚の稽古では、受けが手首などを持ってくれるので、取りはもっぱら足運びや体捌きなどに留意すればよいことになります。その際、力みがない分受けの力の方向がわかりやすく、また、体全体でスムーズな動きができます。

 一方、合理的な動きが身についていない段階で実の技を施そうとすると、どうしても力に頼ったものになりがちで、その結果筋トレなどに重きを置いてしまうことになります。わたしは筋トレの素人なので生半可にそれが悪いとは言いませんが(悪いと言っている専門家もいます)、度が過ぎればその時点で既に武術とはいえなくなっています。

 虚と実はあくまでも合気道技法の表現法の違いです。つまり、虚の稽古でしっかりした動きを身に付け、それが実の技法に結びついていることがわかれば良いのです。

 しかも、みんながみんな実の技ができなければいけないというものでもありません。大部分の稽古者にとって、それを遣って誰かと戦わなければならないという状況とは無縁の生活を日々送っているはずです。戦前、陸軍戸山学校で大先生に合気道の指導を受けたという方の話を黒岩先生から伺ったことがありますが、それは自分から相手をつかまえにいってぽんぽん放り投げるような技だったそうです。相手がこちらのやりやすいように手をとってくれたりはしません。兵隊さんの教育ですからそれは当然のことです。それが実の技法です。

 しかし、戦後になって大先生は、時代とはいえ人を殺める技を教えたことを深く後悔しておられたようです。大事なのは、そこからわたしたちが何を学ぶかということではないでしょうか。

 とりあえず、以上のことをご理解いただければこの項の目的は八割方達せられたことになりますが、もう少しだけ、どうでもよいことを申し上げます。

 虚の稽古で身につけた動きが、ほぼそのままの形で実の技に転化しますが、それは実戦を意識したものですので当身や蹴りといった攻め技が随所に織り込まれます。しかし、優美な合気道の動きにあからさまにそのような小道具を組み込むのはあまり褒められません。まあ、やりたい人はやればよいのですが、本当はそんなことをしなくても、合気道のもともとの動きの中に即座に当身や蹴りに変化できる要素が含まれています。

 ここで一々それを紹介するというのも間の抜けた話ですので、それはどうぞ皆さんが自由に考えて見つけ出してください。一緒に稽古できればすぐにでもお教えできるのですがね。