合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

135≫ かんながら

2010-08-18 16:07:10 | インポート

 稽古というのは、普通、何かを目指してその準備のためにするものです。何かのための手段です。ところが合気道の場合、合気道を稽古して何かを目指すということが本当にあるのかと考えると、どうも稽古の先には別に何もないのではないかと思いつつ今日まできています。

 昔なら、ある種の人々にとっては必要にせまられたり、あるいは実質的な必要性がなくても社会的な評価を勝ち取るために武術の稽古が求められることはあったでしょう。その場合、武術の稽古は何かを得るための手段でした。

 しかし今は合気道に対して格別そのような要請はありません(国情によってはあることもありますが)。試合があるわけでもなく、せいぜい年に一度か二度の演武会や審査でそれもほんの数分間、いま備わっている能力を披露するくらいです。どう考えてもたったそれだけのために一年を通じて稽古に励んでいるというわけではないでしょう。

 また、スポーツとしてではなく制敵技法としての武道なんて、日本くらいに治安が維持されていれば、やらなくても一向に構わないものです。実際、武道に縁のない人のほうがずっと多いでしょう。伝統文化としての流儀を守る役目のある人以外は世の中に武道がなくても誰も困りません。むしろ社会は武道などというものが本来の機能を発揮させることのない世の中を目指してきたのではありませんか。

 そのような状況下でわたしたちが最も考えなければならないのは、やはり、何ゆえに武道(この場合は合気道)をするのかということに他なりません。すなわち武道家としてのアイデンティティーの確認です。以前にも、合気道というものは何かのために稽古をするのではなく、稽古それ自体が目的であるというようなことを述べた覚えがあります。座禅を例にとって、臨済禅のように、座ることを悟りにいたるための手段ととらえるものがある一方、曹洞禅のように、座ることそれ自体が悟りの表徴であると考えるものとがあり、合気道の場合は曹洞禅のようなとらえ方に近いものだという趣旨だったと思います。論理的にはそれは今でもその通りだと思っています。しかしそれをさらに一歩進めて、禅によってもたらされるものを悟りというように、合気道の稽古が招来する境地をどう把握するか、これは考えておく必要がありそうです。

 やらなくても構わないものに価値を見出せということですから、これはなかなか楽な仕事ではありません。無理やり理屈をこじつけてみても、みんなを納得させるのは困難でしょう。しかし、このごろちょっとした思いがあります。

 合気道には試合がありませんから、勝ちたいという思いは最初からありません。このことは武道をやる上でのもっとも基礎的な欲望から既に離れていることを意味します。変な欲がないということはこの際とても重要なことです。それでも他に欲というか望みというか、そういうものを挙げてみると、健康体でありたい、精神の安定をはかりたい、仲間をたくさんつくりたいというようなものが考えられます。それくらいはまあいいでしょう。そのほか、ちょっとカッコ良く演じて褒められたい、『あの人は強い』と思われたい、組織の中で偉くなりたいなんていうのがあるかもしれません。くだらないと言えばくだらない欲ですが、それが稽古へのモチベーションとなるならそれも結構でしょう。

 それらを全部ひっくるめて、その先にあるもの、それが今回のテーマであるところの、合気道によってもたらされる境地です。それは結局、大先生がおっしゃる『惟神=かんながら』であろうと思います。これには神の思し召しのままにということの他に、いやむしろ第一義として≪神であるがままに、神として≫という意味があり、崇敬の対象である神に自らが同化するということを表しています。つまり主体と客体が一致するということです。  

 それを、思念上のことに止まらず、実際の稽古においても感じ取ることができるようになること、それこそが稽古の究極の目的であろうと思うのです。具体的には次のようなことです。

 わたしたちは自分の意思で技を施します。たとえば、一教を施す自分と、自分によって表現される一教という技がある、というのが普通の見方です。ここでは自分と技は本質的に一体ではありません。客観的に一教を見ている自分がいるからです。しかし、本当は、自分がいなければ一教はないのです。技はわたしという体を通じてしか存在できません。一教というものが自分を離れて独立して存在するものではないからです。それを実感するのは次のような場合です。

 長く稽古を積むことによって、特に意識しなくても体が勝手に動いて一教を施すことができる場合があります。このとき、技を完成させようという意識がないわけですから、自分と技の間には主客を隔てるものがなくなっています。自分が一教をしているのではなく、自分が一教そのものになっている状態です。これが惟神ということなのではないかと考えてみたわけです。

(参考:開祖道歌 ・神ながら合気の道を極むれば如何なる敵も襲うすべなし ・神ながら天地のいきにまかせつつかみへのこころをつくせますらを)

 もちろん合気道をするのに、このような考えでなければいけないというのではまったくありません。ただ、大先生が生涯をかけて伝えようとされたものを遺された言葉で探ると、こういうことではなかったかと思うわけです。

 武道なんかしなくたっていい、まして合気道みたいに、いまどき型だなどと、ひとつ間違えば形骸化して強いんだか弱いんだかわからないものを武道と言う枠でとらえる必要がはたしてあるのか、そう思う人も少なからずいることでしょう。それについて、わたしはあえて否定はしません。ただ何かの縁で合気道の門をくぐり、ひょっとしたらここにはいま言った武道の枠とは異なる意味で武道の枠を超えた世界が広がっているのではないかと思うようになった自分がいると、そう感じています。

 


最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
agasanさん、こんにちは。 (a_mond)
2010-08-19 21:27:55
agasanさん、こんにちは。
『科学は自然界の本質を開示する世界知でなく、現象を有効に記述する技法である。』

『方程式は経験を超えて諸事象を理想化するものだ。』

これは有名な自然科学者のことばだそうです。

合気道の法則を理解しても合気道そのものには容易にはなれそうもありません。
返信する
a_mond 様、こんにちは。 (agasan(管理人))
2010-08-20 10:44:35
a_mond 様、こんにちは。

常々わたくしは合気道についても科学的アプローチを大切にしたいと思っています。ですから法則を理解するということは、合気道を含むあらゆる物事を理解するための最も基本かつ必須の条件であると考えています。
そこを通ればいずれは究極の地点にたどりつく(どれぐらいの時間がかかるかはわかりませんが)ことが約束されています。
修行と言うのはそういうものではないでしょうか。
返信する
受け売りなのですが、 (a_mond)
2010-08-20 14:18:40
受け売りなのですが、

稽古で進歩するということは、情緒と生理が物理に順応することだ。

別の表現をすれば生身の身体が物理を発見する。

力のある人間は、それを物理だと納得し、力の無い人間は物理を超えていると感じる。

だそうです。
返信する
 agasanさん、こんにちは、お久しぶりです。 (katsuhayahi)
2010-08-20 16:02:10
 agasanさん、こんにちは、お久しぶりです。
 何事も習熟することによって無意識・反射的に行うことへの進展が期待されます。コンピューター制御よりも精密な職人技で宇宙船の部品が作られているそうですから、正しい基本動作から錬磨された技は上肢の動き一つをとっても、自然に呼吸とともに巡り、手足腰の動きが無意識に適切な呼吸を伴い、従って必然的に最適の間合いが維持され、互いに最善の調和のもとに在ることを自覚できるかもしれません。
そんなとき、互いの接点や身体内部を大気とともに駆け巡り炸裂するような何かを一瞬自覚するのかもしれません。あるいは何か静かな感触の様なものかもしれません。 
 稽古の究極がこのように健全であればこそそれを目指して行くわけで、途中歯が折れたり、関節が破れたり、眼が不自由になったり、学業や仕事から退くことになったり、そんなことが明らかに予測されるようなら、これを積極的に教え導くことはできません。正しい基本動作の錬磨によって試合や勝負の不確実さを排除するのみならず、互いの健康を曖昧にしない稽古が可能であると信じたいところです。
 ただ、稽古の進む道筋が逆さまの流れであれば基本動作も技の成立も頓着しようがありません。
返信する
a_mond様、katsuhayahi様。 (agasan(管理人))
2010-08-20 16:40:49
a_mond様、katsuhayahi様。

稽古というものについて、それぞれ真摯に、なおかつ的を射たお考えを教えていただき、ありがとうございます。

わたくしは、技能というものは理屈で説明できるからこそ人から人へと伝えることができるのだと思っています。この場合、理屈と言うのは普遍的なもの、つまりだれにも平等なものです。そしてまた、実はこれが教授、伝授の限界でもあります。
その先に、特別な個人的感覚の世界がありますが、これはあくまでも個人のものであって、感覚そのものを他者に伝えることはできません。
しかしながら、神技とよばれるほどにまで練り上げられた特殊技能であっても、つまりは一つ一つ、地道な精進の積み重ねの結果であることに違いはありません。ここに一筋の光明があります。
できる人はそこが分かっているということなのでしょうね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。