前回項においてわたしは、『いまのままの合気道をあなたは生涯続けることができますか』といういささか挑発的な表現で文章を締めくくりました。それを踏まえて先般、いつも本ブログをご覧いただいているa_mond様から、修行の目的を見失って『つまらないのに合気道を続けている人』がいらっしゃることを慨嘆されるコメントを頂戴しました。悲しいことではありますが、そのような事実が確かにあるのでしょう。
その直接の原因が稽古者本人の志にあることは自立した人間である以上当然のことではありますが、一方で、合気道の素晴らしさをきちんと伝えきれていない指導者の側(もちろんわたしも含めて)にも一定の責任がないとは言いきれません。
その、指導する側の責任とは何か、わたしは問題ありの指導者には大きく分けて二つのタイプがあると考えています。ひとつは、合気道をなにか神秘的で特殊な技をもつ武道であるかのように思い込み、指導にあたってもその調子で接するタイプ。このような人は、目に見える技法の裏にそれとは直結性のない秘技が隠されていると考え、いまできる技を軽んずる傾向があります。端的に言うと技法の解釈に『気』を常用する人です。常識に則ってみればあまりにも幼稚に映ります。
もうひとつは、自分の能力の限界を合気道の限界と勘違いし、さらなる向上を目指した精進を忘れた者です。修行期間の長さに満足するのみで、未熟な技を十年一日のごとく繰り返すだけで、これでは現代に生きる武道、すなわち未来に続く武道とは言えません。
この両者に共通するのは技法の熟成に不熱心なことです。技法というものは、一通りの流れがわかったら次にはその熟度、錬度を上げていくことで、さらなる向上への興味やモチベーションが生まれてくるものです。そのような思いのない、ただひとに教えることが楽しいだけの指導者は、真理に近づきたいと願っている門弟からはいずれ見捨てられることになります。
そうして、一度門をたたきながら後に離れていってしまった人は、自分の見聞した範囲で合気道を評価するしかないわけで、その評価がこちらにとっては嬉しくない結果になるのはほぼ間違いないでしょう。その評価についての責任は、合気道界というよりも、そもそもの原因者である特定のどなたかが負わねばならないものです。
それと異なる≪生涯続けることのできる合気道≫とは、要するに、おとなの鑑賞あるいは観照に堪えるだけの技量と理念を保持する合気道です。子供だましのテクニックや詭弁などを自らありがたがっている一部の人や、素人に通じない技量の持ち主(ある意味、素人に通じれば本物です)が、もっともらしいことを言ったりやったりしても、しっかりした志のある人には相手にされないでしょう。
さて、ふたりの人が取りと受けに分かれて、それぞれの役割を決められたとおりに果たしていく、これが合気道の稽古の姿です。わたしはこれを大先生のおっしゃった≪愛と和合・地上天国の建設≫の最小単位であると先のブログで言いました。論理としては若干中抜けで飛躍もありますが、趣旨はなんとなくご理解いただけるのではないかと思っています。
技量を競う武道やスポーツでは、目の前の相手は当面の敵です。もちろん競い合った後には敬意や友情が生まれることもあるでしょうが、それはちょっと措いておきます。一方、合気道においては目の前にいる人はハナから自分の能力を高めることに力を貸してくれる、ありがたい同志です。その同志的信頼感が、最小単位である一対一から地域や時代を超えて広がれば理屈の上では大先生の夢が実現することになります。ですから、単純に考えれば合気道のほうが直接的に愛とか平和に寄与するはずです。
しかし、欲と二人連れの人間のすることですからこれがなかなか一筋縄ではいかない難しさがあります。それでも、せっかく理想的な稽古法に親しんでいるのですから、二人連れの相手を間違わなければ、自分の人生の一部に合気道を組み入れることの価値がわかると思います。
自立した人間を大人(おとな)といいます。ただし自立と言うのは他と無関係に存在するということではありません。人間は社会を形成し相互に依存しながら生きています。おとなというのはその仕組みを理解し、そのあり方に感謝できる人をいうのだと思います。そうするなかでより良い社会を実現していく、このような事情はそっくりそのまま合気道にあてはまると思うのですがいかがでしょう。それを体をもって味わうのが稽古であり、それだからこそ生涯続けるに値する武道となるのだと思います。
おとなの評価、外部の評価、そして何より自立した人間としての自分自身の評価に堪えうる合気道をこれからも続けていきたいものです。