合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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105≫ 剣の理合と言うけれど

2009-07-14 12:50:09 | インポート

 合気道の理合は剣の理合と同じだと言われます。それを説明するとき、合気道で錬った体で剣を持てば合気剣になるという言い方をします。しかし、杖を持てば合気杖であるとも言いますから、それなら合気道は杖の理合と言ってもいいわけですが、そうは言いません。

 辞書によれば理合とは、わけあい、理由、道理というふうに説明されています。ということは、理合とは理屈、考え方のことであって、動き方そのものを指すわけではないということになります。

 ですが、合気道で剣の理合をとりあげる場合、大方は、合気道の動きで剣も扱えると言っているにすぎません。そもそもヒトの動きなんて、何をするにしろ同じような関節を同じように動かすのですから、動きが共通だからといって理合が同じだということにはなりません。たとえば鍬をふるっている人や掃除機を使っている人を見て、動きが似ているから剣術や槍術に通じるなんて普通は考えません。ところが合気道において、それに似たようなことが《剣の理合》という一言で許されるとしたら、そうとう脳天気だと思いませんか。

 伝統武術のなかでも、いわゆる総合武術といわれる流派においては、武器技や柔術などを並修するなかで各種技法の統合や連携を実現させています。ただしその場合でも、体の遣い方が同じということであって、理合の共通化といったことはあまり耳にしません(一部の優れた武術家は傾聴に値すべき理論を主張しておられますが)。もちろん、特に理合を意識しないまま技法に収斂されているといったことはあり得るでしょう。しかし《理屈》ですから、やはり意識されないことには、同じとも違うとも検討のしようがないわけです。

 さてそれでは、いったい何をもって理合が同じと(開祖は)おっしゃったのでしょう。思うに、剣の理合とは《触れれば斬れる》ということではないでしょうか。そのことを前提に技を組み立て、技を磨くことが大切だという教えではないかと思うのです。

 一般的に、現在の合気道は掴むことにこだわりすぎていると感じられます。受けは掴んだ手を離さないのだという仕組みに、取り、受け双方がなんの疑問も抱かずに技が進行していきます。そのような稽古方法にも大いに意味はありますから、一概に否定するものではありませんが、その場合、意味や仕組みをよく理解して行うことが大切ではないかと思うのです。

 受けに掴ませて技を施す稽古法は、いわゆる虚の稽古であり鍛錬法として意味があるのであって、触れた途端に勝負が決まるというような剣の理合からは大分離れたところにあるということは理解しておく必要があります。

 さて、このブログで再三述べているように、受けを振り回すような技法をわたしは好みません。また、力まかせでもなんでもとにかく受けを畳に押さえつければよいというようなやり方や、間合いの内で平気で相手にこちらの正面をさらけ出すような体捌きも、とても受け容れられません。それらはつまり剣の理合に適わないからです(それをわかっていて、何らかの目的のためにあえてそうする分には良いのです)。

 結局、合気道における剣の理合というのは、そのような、合気道が合気道であるための(武術であるための)基本的条件といったかたちで表されるもので、単に剣を振り回すことが理合の共通性を物語るわけではないということを申し上げておきたいと思います。

 大先生は合気道は当身が七分とおっしゃったそうですが、合気道開祖として、この言葉は大きな、あるいは複数の意味を持たせて発言されたのではないでしょうか。だいたい、柔術系の体術であると思われている合気道で、当身が優先するような発言は、へたをすれば流儀の存続を脅かしかねません。しかし、そう言わざるを得ない特質を合気道が持っているとすれば、それこそが隠された真実であろうと思われます。

 《当身が七分》、これがすなわち触れれば斬れる《剣の理合》なのでありましょう。自分からは当てることのできる位置に、相手からは当てられない位置に身を置くようにしなさいということで、おそらくこれを忠実に行おうとしたのが故西尾昭二先生です。

 それについて、わが師黒岩洋志雄先生は『相手に打たれるところまで入っていかないと、こちらも打てない』とおっしゃっていますが、これは(危険領域である)間境を越える稽古や経験をたくさんされた方のご発言であり、簡単にマネのできることではないように感じます(バックナンバー⑨もう一つ 2007/3/16)。先生にとっては当身七分どころではないのかもしれません。

 蛇足ですが、今回の文章を書くにあたって、過去のブログを読み返していたところ、文意の力点は違いますが、同じようなことを述べている回がありました。意外にぶれてないなと思った半面、なんと進歩のないことかと、やや情けなく思いました。