いま海外で合気道の人気が高まっていると聞きます。合気道の持つ精神性の高さがその理由であるとも伝えられています。実戦性よりも精神性が評価される武道というのも、なんだかなぁという感じがしないでもありませんが、ま、いっかぁ。
合気道はじめ武道に関する多くの解説書の記すところや愛好者の発言から推察するに、ここで言われている精神性とは、おそらくは一般的な道徳律のことであろうと思われます。心身鍛錬という場合の心もそれと同義ととらえてよいでしょう。思いやり、意志、度量といったところを指しているものと理解できます。
一修行者としてのわたしは、もともと合気道で道徳的な意味での心を鍛えようとは思っていません。だいぶ以前に、稽古を通じてこどもの躾をお願いしますという親御さんがいることに対し、家できちんと躾けていますから入門させてください、というのが本来のあり方だという話を載せました。心とか躾というのは稽古の前提条件です。そういうことですから、わたしだって心を整えること自体は大事なことだと思っていますが、ただその手段として武道に頼るわけではないということです。
しかし、武道に対して社会が心身両面の鍛錬を要請するのであるならば、きちんと対応するのも指導者としての義務かもしれません。合気道で心を鍛えようとは思っていない(あくまでも自分自身のこととしてですが)、などと言ってしまっては身も蓋もないことになります。
さて、心の持ち方や道徳というものは、きちんと言葉で教えるべきものです。合気道を学ぶ子供たちの行儀が他に比べて良いとするならば、それは武技の鍛錬からくるというよりは、指導者が稽古に関連づけてきちんと言葉で教育しているからです。武道家が道徳教師の役割をも果たしているわけです。もっとも、そうであるからこそ、現代において教育システムの一環として武道の存在が許されているのかもしれません。言葉を通じて理性に訴える教育を伴わなければ、武道なんてただの乱暴者を養成しているだけになりますから。
ところで、武道修行が目指す精神性とは、本来そのような道徳レベルのものではありません。道徳とは社会をうまく成り立たせる方法、定めのことであり、功利的側面を持っています。一方、修行によって培われる本当の精神性とは、弛まざる鍛錬の末に、本源的自己との邂逅によりもたらされる絶対の個の確立とでもいうべきもので、社会的功利性とは無縁のものです。
絶対の個の確立というのは、禅の悟りのようなものだと考えていただいて結構です。じゃ、その悟りとはどういうものかというと(実のところわたしもわかりませんが、推測です)、生まれて死ぬまで、腹が減ったら飯を食い、眠くなったら横になり、腹が立ったら怒り、おかしければ笑うことです。悪でもないけれど善というわけでもない、要するに計算がないのです。道徳が目指す社会的評価とか競争などという相対的価値観とはまったく異なる次元に心を遊ばせた状態です。なんじゃそりゃと思われるかもしれませんが、この、あたりまえのことをあたりまえに受け止める(わたしはあるとき合気道の稽古はこのためにあると得心したことがあります)ことができなくて右往左往しているのがわたしたちの日常です。
そんなわけで、武道が目指す精神性と道徳は本来関係ありません。しかし子供への武道教育と同じで、人をあやめるに足る技能を持つものは、一層高い倫理性を求められるのも事実です。武道家がわきまえるべき道徳とは、武道を遣うためのものではなく、武道を遣わないためのものです。その意味で、武道稽古を通じて身に付けることが期待されているのは我慢とか忍耐とか、自己抑制に類するものです。しかしこれは体で覚えるのではありません。頭で覚えるのです。行動をコントロールしているのはあくまでも理性です。それに対して、武道が目指す絶対の個の認識とはどちらかと言えば感性に属する部類のものです。どちらも精神性という言葉に置き換えることは可能ですが、中身は大いに違うものです。
道徳的な意味での精神性は武道家あるいは武道愛好家であることの前提、必要条件です。その上で、武道、とりわけ合気道を通じて得られる(かもしれない)精神性とは、大先生が感得された大いなる存在への気付きとでもいうべきものです。これが絶対の個です。合気道はそのような可能性を秘めた、類稀な武道です。
でもこれ、目標ではあるけれど、必ずたどり着けるという保証はありません。むしろ、わたしも含めほとんどの人は行き着けない境地ですが、それでいいのかもしれません。みんな悟りを開いたら社会は発展しないでしょうからね。この世は欲と二人連れといいますから。
冷静で緻密な整理と一つ一つの語句に込められた思いやりを感じ感服いたしました。
自己抑制と絶対自由の空間に漂う生がイメージされます。