わたしどもの会ではいま、近隣の町の武道館もお借りし、都合3箇所で今月いっぱいの予定で初心者講習会を開いています。参加者は下は小学生から上は還暦を過ぎた方まで様々です。これを機に愛好者が増えて、大先生の唱えられた万有愛護、和合の精神が広く行き渡れば喜ばしいことです。
講習会では一通り能書きをたれてから、四方投げの裏を指導します。これは転換と後ろ受け身ができるとどうにか技らしくなるので一番初めに体験してもらいます。ところで、初心者の方はこちらの思うようには動いてくれません。取りが手を少しでも高く上げて回ると、相手もほぼ間違いなくいっしょにくるりと回ってしまいます。だれも倒されるまでじっと待ってくれはしません。待ってくれて上手く倒れてくれるのは経験者だけ。
こんなとき、『ここで回ってはだめなんですよ。そういうきまりですから』というふうなことを言いたくなります。本当は≪回ってはだめ≫ではなく≪回られてはだめ≫なのです。
しかも、そう言いながら、指導する側がきまった通りに動いているのかというと、案外自分の都合のいいようにしか動いていないこともあるのです。四方投げの裏では、相手の手を取って背中合わせで回るためには手を高く上げるか、自分が腰を落とすしかないのですが、腰を落とすのはシンドイから、楽な方法として手を上げてしまっているのです。その結果、二人で回って顔を見合わせて『なんだこりゃ』となります。初心者はなんの先入観もないので、相手の動きに素直に反応しているだけであって、それが普通なのです。技が成立しない責任はひとえにこちら側にあります。回らないように躾けられてしまった合気道経験者には通用するけれど初心者には通用しない技なんて、ナンセンスの極みです。
それでも、ある程度の経験を積むと、受けが予想外の動きをしても、なんとかごまかして収めることはできます。しかしそういうやり方は根本的な解決法ではありません。例えば詰め将棋です。あれは最良の手筋を積み上げていくしか正解にたどり着けません。途中でちょっと違うけどまぁいいか、なんてわけにはいきません。なすべきことをなさざれば決して成果を生み出さないのです。
それでは合気道において≪なすべきこと≫とはなんでしょうか。事と理にわけて考えましょう。
まず≪事≫、つまり外に表れてくることとして大事なのは、さっきちょっと触れましたが、腰を低くすることです。なにしろ、大先生はじめ、塩田剛三先生も、また大先生が一時師事した大東流の武田惣角氏も、名人達人とされる方々はみんな背が低かったのです。そんな方々が発展させてきた合気道ですから、自ずと技は低いところから攻めあげるようにできているのは道理ではないでしょうか。
それはまぁ屁理屈としても、なんの技によらず膝が伸びて腰高になっていてはそもそも動けません。腰を低くなんて、なにを今更と思われるかもしれませんが、もし道場に鏡があったら自分の構えを映してみてください。思っていた以上に腰高になっているのではないでしょうか。腰を低く保つことは大切です。単純ですが簡単ではありません。
次に≪理≫として大事なことは、合気道は本来必殺武術であるという認識です。合気道のカタには、すべてそのように動かなければならない合理的理由があります。それは、相手の攻撃を避けつつ瞬時に制圧してしまうための必然的動作ですが、動きの意味を知らないと形骸化してしまいます。そしてその意味たるものはいまや忘れられつつありますが、このことは次回にでも改めて述べてみようと思います。
いずれにしろ、そのような心構えで稽古をすれば、自ずと腰は低くなり、事と理は不可分なものであることがわかるでしょう。
多くの方にとって合気道は健康法や楽しみのためであって、べつに武術性を求めているわけではないのかもしれませんが、正しい体遣いや呼吸法は優れた健康法でもありますので、どうせやるならそのほうが良いですよ。
とにかく、腰は体の重心であり中心ですから、これをどこに置いてどう動かすかなのです、稽古の要は。