自慢じゃありませんが、わたしは元々それほど度量の大きい人間ではありません。自慢どころか、いい歳こいて何を言いたいんだとお叱りを受けそうですが、その、どちらかといえば狭量なわたしが、こと合気道に関してはそれに関わる人々の持ついろんな価値観を受け容れようと思っています。その節操のなさが自慢といえば自慢かもしれません。事実、百人いれば百通りの技法や考え方を知りたいと、機会があれば学ぼうと考えています。
もっとも、受け容れるといっても、それを自分のものにしようというよりは、自分の知らないことに対する知的好奇心のようなものだと言ったほうが正直かもしれません。もしもその中に、これはと思うようなものが見つかればそれはそれで儲けものというスタンスです。
ですから、全国また世界中の合気道界で技法や理念あるいは組織論や組織運営論等々で摩擦や軋轢があると聞くと、なにをつまらないことで争ってるんだかと思ってしまいます。そして、はっきり言えば、そのような争いの当事者は合気道を愛しているのではなく、合気道界における自分の立場を愛しているにすぎないのです(あ~、言ってしまった)。
誤解のないように言い加えておきますが、現在わたしの置かれている状況はとても友好的でなんら問題ありません。上記のことは、合気道人として青年期をともに過ごしたある方が、かつて所属し大いに貢献していたグループから異端者のごとく扱われ、去らざるをえなかったことを知り、斯界のゆがみを感じたことによります。部外者が詳細も知らず言及することは控えるべきかもしれませんが、この場合はともに怒り悲しむのが同じ時を過ごした者のスジというものでしょう。
探せばこのようなもめ事はいろいろあるようですが、なかで一番ご苦労されたのは、おそらく二代道主吉祥丸先生ではなかろうかと思います。大先生は開祖としてご自身こそが合気道そのものであり、他からの批評、批判、指弾を一切許さないだけの存在理由があります。それを引き継ぎ、そこから現代武道にふさわしい技法、理念、組織を作り上げた最大の功労者は吉祥丸先生であることは疑いの余地がありません。
戦後、吉祥丸先生が指導や運営の要として力を発揮し始め、その後名実ともに合気会の中核となるまでには内外から様々な思惑や圧力があったと聞きました。以前、現在の守央先生への道主継承式典の場で、主催者代表がいみじくも『このたびの道主継承はなんら問題なく円満に執り行われました』とあえて発言された裏に、かつての状況がしのばれます。
このようにわが合気道の世界には、大から小まで本来あるべきではない問題があるのも事実です。その解消に一番効果的なのは、やはり自分の価値観を他人に押し付けないことでしょう。自分に自信があれば、他人の考えや技法が自分と異なろうとも許容できるものです。
それじゃ、みんな考えや技がバラバラでもいいのかという疑問を持たれる方もいらっしゃるでしょう。
あえて言います。それでいいのです。わたしたちの共通項は、開祖たる大先生への敬愛思慕の念、その理想実現へ向けてのたゆみない精進、それだけで良いのではありませんか。
わたくしどもの会にS氏という好青年がいます。入会からおよそ半年ほどの新人ですが、先日彼から次のようなメールが届きました。ある日の稽古で、一緒に稽古していた相手からいろいろ指導してもらったのだが、なかなか上手くできない自分に腹が立って、その気持ちが顔に表れたかもしれない。相手の人に申し訳ないことをした、というのです。
そのようなことはありがちなことで、それほど気にすることもないと思うのですが、彼はそれを自分が未熟なせいだと感じ、稽古相手への無作法を恥じたのです。しかしどうでしょう、入会から半年で、かれは既にして合気道家のたしなむべき心情を獲得していると言えるのではないでしょうか。あるいはこの道に入門しなくても≪間に合う≫だけの人格をとっくに確立している人なのかもしれません。
合気道という清浄な場に利害得失を持ち込み、自分の立場ばかりを気にするお方はこのS氏の爪の垢でも煎じて飲めば、少しは合気道家の本来の面目を感じ取ることができるかもしれませんよ。