合気道ひとりごと

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340≫ 潔いということ 

2018-06-07 16:29:19 | 日記
 日大アメフト部がひき起こした違反タックル事件について、合気道人の立場からなにか言うべきことがあるのではないかと、あれこれ考えていましたが、いまやスポーツにおけるルール違反の範疇を越え大学そのものの組織運営論にまで飛び火しました。

 ことの経緯をみるとそこまで世間の関心を集めていることは当然かもしれませんが、もはや一人の合気道人のブログなどがしゃしゃり出るレベルではなくなっていますので、ここでの取り扱いはやめます。ただ、ひとこと言っておくとすれば、それなりの立場にある方々でも間合いのとり方がわかっておられないということです。合気道家はその間合いというものを獲得することに生涯をかけるというのに、です。この場合の間合いとは何を指すか、その意味合いは皆様それぞれにお考えください。

 ついでにもうひとつ、マスメディアの狂乱ぶりです。事件直後のきちんとした裏付けや証拠がない時点で、すでに事件の黒白が決まっているかのような報道は、結果的に間違っていないとしても行き過ぎであろうと思います。試合におけるルール違反を扱っているのに、視聴者や読者の感情に訴えるばかりで法治の原則を無視し、自分たちの意図する方向に世論を導こうとするのは傲慢というべきものです。簡単に誘導されてしまうわれわれ世間もどうかと思いますが、まあ、いろいろ考えさせられる事件ではあります。

 ところで、ルールと感情のちょうど中間にあるのが『潔い』という価値観ではないかと思います。ルールのように固定的ではなく、感情のように個々ばらばらではない、その両面を持った感覚です。ルールではないので価値基準はひとつではありません。かといって単なる感情ではないので人によってみな違うわけでもありません。『潔い』はある程度の範囲をもつものだとお考えください。

 ルールからは多少外れるが感情に任せるほど無軌道ではない、その許容範囲がみんな生きやすい環境というものではないでしょうか。と言うといかにも捉えどころがないように思われるかもしれませんが、間合い感覚こそが『潔い』の範囲を示すものです。その間合い感覚を長い時間をかけて身につけようというのが合気道、広くは武道の修行だと思います。

 ですから、少なくとも合気道の楽しみは誰かを投げたり押さえたりするばかりではなく、その動きを成立させている原理や取り受けの役割分担などを理解することで得られるものではないでしょうか。

 件の事件の登場人物はおそらく合気道はやったことがないでしょうから高いレベルの間合い感覚というものは持ち合わせていないでしょう。したがって『潔い』とは離れた価値観の持ち主なのでしょう。もちろんアメフト愛好者がという意味ではありませんので念のため。

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