合気道ひとりごと

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339≫ 気と導き 

2018-05-20 19:53:17 | 日記
 言葉によってイメージが形づくられ、実感や経験がないのに何かわかったようなつもりになることがままあります。合気道でいえば『気』や『導き』といったようなことです。多くの合気道愛好者のなかで、本当に気というものを把握している人や相手を導いていることを体感している人は、いったいどれくらいいるのでしょうか。なんとなく感じるとかいつもやっていると信じている人は結構おられるでしょうが、それは自己催眠に類するものや慣れによるものではないでしょうか。

 黒岩洋志雄先生は稽古でこれらの言葉を使って技法を説明されることはありませんでした。ただし、気や導きというものを頭から否定しておられたわけではありません。意味を限定した上で、そのようなこともあり得るという立場です。

 今回はもう一度それらを取り上げてわたしの考えを説明したいと思います。表現の仕様によっては善意の合気道家にケンカを売ってしまうようなことにもなりかねませんが、少なくとも感情論で斯道を語ることは避けたいと思います。

 さて、最近刊の『大東流合気柔術 琢磨会:森恕著 日本武道館』を読みました。大東流についてのわたしの理解は部外者の域を超えるものではありません。ただ、数ある同流関係の出版物のなかでは、著者の真摯な人柄もあいまって参考とすべき部分がいくつかありました。

 とりわけ、この本のなかで著者が述べている『合気とは技術である』という考えには共鳴できました。変に『気』を使いまわす合気道家よりはよほど科学的であり、科学的であるからこそ再現性があるといえます。もちろん、合気技法を文章で表現することの困難さは、こんなブログを綴っているわたしにもわかりますので、わたしの理解と著者の理解に隔たりのあることは容易に想像できます。

 その上であえて言えば、読後にあってもわたしの(正確には黒岩洋志雄先生の)合気道理論は変わることがありませんでした。すなわち、著者にあってもいわゆる合気や導きというものは結局相手の自発性に依存するものであるからです。簡単に言うと、技法がきれいに決まるのは日々の稽古による慣れによるものであり、逆に武術的センスのない人には掛からない技術です。具体的に言うと、合気とそれに続く技法によってつかまれた腕を小さく回すだけで受けが飛んだり倒されたりするのは、相手に受け身の技術があるからです。受け身の技術がないと、投げられた恐怖が先に立って人間はとても地べたに向かって飛んだりできません。なにしろ人間の神経や平衡感覚は転ばないために発達したものだからです。

 また著者は相手の体の特定の部位に触れることによって動きを制御する、いわゆるツボがあるということを言っています。これもまんざらあり得ないことでもないのですが、厳密には部位だけではなくタイミングも関係するとわたしは考えています。それこそ、部外者が何をわかって言っているのかと叱られそうですが、相手が自由に動く人間であることを考えれば当然のことだと思います。

 柔道は言うまでもなく、力のぶつかり合いである相撲でもちょっとしたきっかけで相手をきれいに投げることがあります。柔道の出足払いや相撲の小股すくいなどです。これは明らかにタイミング主導の技です。試してみたい方は、稽古の時ちょっとだけ時間をもらって、自分は座り相手にはその前に立ってもらって、軽く一歩足を踏み出してもらいます。そのとき、浮いた足の足首付近にそっと手を触れると相手は躓いたように足を止めよろめきます。足と手では明らかに力の出具合が違うのに手が勝ってしまうのです。もちろんタイミングを誤ると成功しません。

 また、黒岩合気道では相手の腰を特定の方向に手で押すと腰が崩れるという技術があります。しかしこれもまた、相手がそれを予測して下半身を固めるとできるものではありません。やはりタイミングです。

 さて、気や導きというものの不確実さを言うのに合気道以外の文献を利用したのはいささか不誠実かもしれません。ただ、ここで取り上げた本は先述のとおり参考とすべき内容を含み、かつ著者の師である久琢磨氏は大先生から合気道八段を与えられた方ということもあって、わたしたちといくらか縁のある方とその著書であることを前提とした敬意を含む客観評価であって、為にする批判ではないことを申し添えておきます。

 著者は合気というものを本当にわかるためには長い長い稽古が必要だというようなことも言っています。それはまったくその通りと言うほかありません。