合気道ひとりごと

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236≫ 受容される変化 序

2014-05-07 14:36:00 | インポート
 前回は、現代武道たる合気道も時代の変化と無縁ではありえないということを申しました。そこでの変化は玉石混交であり、受け入れるべきものとそうではないものをしっかりと判別し、正しい方向を見失わないことが何より重要です。

 それでは、どういうものが受け容れられ、どういうものが捨てられるべきか、その判断基準は何かということが示されなければなりません。ただこれは、数学の公式にように客観的、合理的にすべての状況にあてはまるような形で表されるものではなく、当事者の主観あるいは価値観に左右されるものであることは認めなければなりません。

 したがって、合気道に何を求めるかによってその基準が違ってくることは大いにあり得ることです。それでも、同じ合気道という名称のもとでなされるのであれば、最大公約数的なくくりがあるはずです。そのことを今回は吟味してみようと思ったのですが、その前に、普段の稽古のあり方をまずは検討する必要があるようです。

 さて、合気道とは言うまでもなく開祖 植芝盛平翁によって生み出された現代武道です。それは、日本武道の淵源から永い時を経つつも、その真髄を失うことなく、しかも高度に洗練された技法と理念を保有する日本武道の究極のかたちです。もちろん、日本武道は原初においては闘争に役立つ技術として自然発生的に世に現れたもので、それが長年月にわたり様々な社会事象にもまれる中で、最終的には人格の陶冶に資する技芸となったものです。

 もともと人と争う技術が人間形成に役立つことになる理由は、ごく大雑把にいえば、その修練過程における精神のあり方の飛躍的進化によります。しかし、本当にそのことを実感しているのは一握りの優れた素養の持ち主だけであって、わたしを含め多くの人は、その飛躍的進化があるということを知識として持っているに過ぎません。『武道家らしく立派でなければいけない』という道徳のレベルです。知っているのと身についているのは違います。ですから、時には、猛烈な稽古を重ねたにもかかわらず人格破綻しているような武道家が現れてくるのです。つまり、武道の修練がそのまま人格の陶冶につながっているわけではないことの証明です。

 さて、そうは言うものの、武道の稽古がなんとか人間形成に結びつかないと、世のほとんどの合気道指導者は存在価値がなくなってしまうでしょう。そうならないように、今回のテーマはその結びつきの必然性を語ろうとするものです。

 武道家としての開祖植芝盛平先生は、戦わなくてよいとか、戦ってはいけないというような単純なことを言ってはおられません。自分は必ず勝つとおっしゃっているのです。戦えば必ず勝つ、この信念がなければ新しい武道を生み出すことはできません。だからといって、人と争うことを勧めているわけではもちろんありません。
 
 どうしろと言っておられるのか。それは、必勝の技法を身につけ、その結果として戦う必要のない状況を作り出せということです。そのためにはいい加減な修練では全く足りません。生涯の全てを費やしてやっと足りるかどうかというレベルです。そうだとするとしかし、ほとんどの人はその成果にたどり着くことは不可能でしょう。

 現実的にわたしたちにできるのは、精神の飛躍的進化に関わる実感とその知識の中間のあたりを目指すことでしょう。知識にいくらかの体験を加える程度ならできるでしょう。その場合、知識とは大先生の表された愛と和合の世界の構築に合気道を通じて寄与することの可能性を知ることであり、体験とはその合気道稽古における相手への感謝の念を持つことです。わたしたちはそれを当面の目標にしようではありませんか。

 さて、その稽古における技法の不易流行を考えるのがそもそも今回のテーマでした。ただ、何を目指すかがわかっていないと途中で生ずる変化において何が玉で何が石かが区別できないので、長々屁理屈を述べたのです。そういうわけで、本題は次回ということにいたします。

【第8回 特別講習会のご案内】
再三お知らせしております標記講習会を来る5月18日(土)に開催いたします。
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