先日、わたしが関係する合気道団体宛ての文書を作成するにあたり、その書式に身分、立場を記す欄がありました。その中に《職業》という項目があり、ちょっと考え込みました。そこからたどって、合気道にはプロというのがあるのだろうか、というのが今回のテーマの発端です。
合気道の専門家といえる人は相当数いらっしゃいます。ただ、それを職業としている人はそう多くないでしょう。実は上述の文書の職業欄に、わたしが関わる会の主宰という名目を記入してしまって、ちょっとまずかったなと思っています。職業というのはそれで生計が成り立つことが前提でしょうから、われわれの世界では本部の指導者や規模の大きい道場主および一部の指導者などに限られます。わたしなどはとてものこと該当しません。
さて、プロです。そもそも合気道には試合がありませんから、職業スポーツや、あるいは囲碁・将棋のように試合に出て賞金を稼ぐというプロはいません。もっとも、それは合気道に限ったことではなく、試合のある他武道でもだいたい似たようなものでしょう。
ちなみにゴルフには、試合に出て賞金を稼ぐトーナメントプロと他者を指導することで報酬を得るレッスンプロというのがあります。そうしてみると、いささかなりとも報酬を得ている合気道の指導者はレッスンプロに相当するのかとも思います。
しかし、合気道の指導者をレッスンプロと言い切るのにはいささか抵抗があります。いわゆるレッスンプロと合気道の指導者の間には画然とした違いがある(べき)と思われます。これは修業と修行の差ではないでしょうか。学芸や技術の習得を《修業》と呼ぶとすれば、《修行》にはそれに加えて人格の陶冶を目指すことも含みます。そこから、武道の稽古は《修行》でなければならないと考えます。そのような覚悟をもって事に当たる合気道の指導者を、やはりレッスンプロと呼ぶべきではないということはご理解いただけるものと思います。
また、合気道界には、十分な力量を持ちながら、信念としてあえて合気道を飯の種にしないことを墨守している人もいます。そのような人を、報酬を求めないことを理由にアマチュアと呼ぶことにも違和感があります。
そうしてみると、武道界においてそれぞれの立場をプロとアマという枠で仕分けすることは適切ではないことがわかります。ごく大まかに、プロ・アマは職業上の立場を表す区分だといっていいでしょう。それに対して、武道家というのは狭い意味での身分を表すと考えるとしっくりきます。
明治維新をもって日本ではそれまでの身分制度を廃しました(実情はどうあれ)。しかしかの制度は、その身分制度の最上位に位置した武士階級にとって、良くも悪くも自分を律する便利な区分法だったはずです。
ひと口に武士といっても、幕府や諸藩に仕えて禄を食むサラリーマン武士とそのような仕官のかなわない浪人とがいました。浪人といえども何らかの方法で生活を成り立たせねばなりませんから、傘張り浪人などと揶揄されるように様々な労働に勤しんだことでしょう。それではその傘張り浪人に身分は何かと問えば、恐らく皆がみな自分は武士であるといい、間違っても傘張り職人とは答えないでしょう。
これと同様の身分意識が武道家にもあてはまるのではないかと、そう思うわけです。武道で飯は食っていないけれども、生きることの多くの時間を武道のために捧げている、そのような人が少なからずいることをわたしは知っていますし尊敬もしています。
願わくは、武道家として技法の向上のみならず常に人格の陶冶を心がけているそのような方々に正当な評価の下されんことを。