ちょっと気になった四字熟語から、合気道のあるべき姿を考えてみたいと思います。
≪神武不殺≫という言葉があります。出処は中国の古典(易経)のようですが、日本では原典の意味にとらわれず、武道は神聖にして人を育むものであるというような意味合いで使われてきたようです。そうしたことから、日本武術では敵の命を奪うことが可能な局面でも、あえてそうしないで生け捕るための技術が工夫展開されてきました。
このような日本的メンタリティーの存在は、かつて流儀によっては捕り手といわれた柔術系武術はもちろんですが、触れれば斬れる剣術においても、柳生新陰流の無刀取りに代表されるように極力人を殺めることなく事を済ますという考え方があることからも明らかです。日本文化の優れた点であると思いますし、それこそが日本人の本質ではないかとも思います。そのような伝統があるからこそ〇〇術が〇〇道と呼び名が変わることに違和感がなかったのでしょう。合気道が愛と和合を説くのもその線上にあるといって差し支えないでしょう。
しかし、斬ってしまえば済むものを斬らないで取り押さえる、ドンと打ち倒してしまえばいいものをそうしないで組み伏せる、そのためには斬ったり打ったりすることの何倍もの技量が求められます。合気道はその最たるものです。二教や三教を考えてみればすぐわかります。せっかく掴んだ相手の手首をわざわざ一旦はずして捻ったり回したり持ち替えたりして掴みなおすことの面倒くささは、新米のころに限らず今だって十分に閉口しております。
もっとも、そんな思いがあるからこそ新しく入門してきた人の戸惑いに共感できるわけで、それもまた現代において武道に関わることによって得られる徳というものでしょう。こんな面倒くさい武道を趣味として選択してくれた人たちに感謝しております。
いずれにしろ、神武不殺を実現するためには高い技量と精神が必要だということがわかりますが、そのことは単に稽古の場だけではなく、日常の生活にこそ生かされなければ値打ちがありません。つまりこれもまた現代における武道修行の意義といえます。
ですが、本音を言えば、神武不殺などというレベルとはかけはなれた下世話なことで恐縮ですが、だれとでも仲良くやっていくには、じつは日常生活上の高い技量と精神が必要だということでもあるのですよ。合気道と同じく、言うほど簡単じゃないのですよね。
次は≪不易流行≫です。いつまでも変わらないものと時に応じて変化するものという意味で、その両面をあわせ持つところに芭蕉俳句の本質があるのだそうですが、色即是空空即是色みたいで、素人にすぐわかるようなものではなさそうです。
ただ、護持と変化という意味に単純化すれば、これは合気道のあり方にも当てはまります。
合気道で護持すべきものは何か、あくまでも私見ですが、それは開祖発するところの理念でありましょう。この場合の理念とは、合気道の存在意義というようなものです。愛と和合でもいいでしょうし、それこそ神武不殺といってもいいでしょう。
では流行は、わたしは各種具体的技法こそがこれにあたると思います。技は変わってよいということです。これは大いに異論のあるところでしょうが、人間のやることである以上、そもそも多かれ少なかれ異同があるのが当たりまえです。またその人間は社会的存在ですから、その行為に社会的要請が反映されるのも当然です。そうでなければ、ということは反社会的あるいは非社会的な行為とみなされれば存在自体が許されません。
したがって、いかにかたくなに技法を護ろうとしても、もしそれが社会の要請に合致しないときは廃れるしかないのです。大先生の場合も、戦前と戦後では技法が大きく変わりました。
わたしたちはそこから何を学べばよいでしょうか。それは大先生の心の柔軟さではないかとわたしは思います。合気道を確立したその当事者にして、やみくもに頑固を通すのではなく、発展的に変化させていくことに勇気をもって当たられたということでしょう。
ですから、ある時代の一技法のみを取りあげて『これが大先生の技で、他は間違いだ』なんてのは、いかがなもんでしょうねぇ。