合気道ひとりごと

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181≫ 一人がため

2012-06-18 15:33:49 | インポート

 【多様な価値観が共存する現代、いろいろな技芸や楽しみごとがある中で、なぜ合気道なのかという問いに正面から向き合い、揺るぎない確かな道を見つけたいものです】

 これはわたしの主宰する会のホームページに載せている一文です。その問いにまさしく正面から向き合ってはいますが、揺るぎない確かな道は未だに見つけ出せていません。合気道の門をくぐってから40年以上もたつのにです。実に情けないことではあります。

 合気道に関わるいろいろな行事などで元気溌剌振舞っている人をみると、本当にうらやましく思います。もちろんどんな方でも様々なご苦労を背負っておられ、それと同居しての、あるいは克服してのお振る舞いでしょうから、そのことには大いに敬意を捧げるものです。そのような方にとっての合気道は心や体を元気にしてくれて、日々の暮らしにストレートに益するものとして親しまれているのだと思います。

 一方、生きる時間の多くを、つまり行動することも思惟することも何らかの形で合気道に関係づけずにはいられない、不器用な生活をしていると、ふと、自分はどうしてこんなことをやっているのだろうという思いにとらわれることがあります。これが、職業ならそれなりの割り切りも可能なのですが、職業というのが経済的に生活を支えるに足るものであることを意味するのなら、わたしにとって合気道をすること、あるいは指導することは職業でさえありません。さりとて趣味というには少々深入りしすぎてしまいました。

 そんな状況で、仮にわたしが合気道をはなれても、誰も何も困らないのではないか、そういう自分自身さえ困らないのではないか、そんなふうにも思います。そして事実そうなのでしょう。にもかかわらず、それでは何故、かほどに合気道というものにこだわって生きているのだろう、それが今回のテーマです。

 前置きが長くなってしまいました。その分早々と結論を言ってしまいます。

 わたしにとって、なんのために合気道をしているのか、それは、わたしたちの原点であり最終目標でもある開祖の合気道と直接向き合い、合気道開創の理念を我がものとするためです。

 な~んだ、とっくに結論が出ているじゃないか、そう思っていただいてもいいのですが、この答えはついさっき(といっても数日前)たどり着いたのです。もちろん、わたしの思考は薄々そのようなところに導かれるのではないかという予測はありました。それが確信に変わったのは、ずいぶん前に読んだ本にあった親鸞の言葉を思い出したことによります。

 いきなり抹香臭い話になって恐縮ですが、親鸞は当時(13世紀初頭)浄土の教えを広めつつあった法然の専修念仏の門に入り、すべてを法然に預けきり、自身も後に浄土真宗と呼ばれる一流を開いた人です。わたしはここに師と弟子との最高のかたちを見出すものですが、それで終わってしまえば後の真宗があったかどうかわかりません(わたしは信徒ではありませんので念のため)。

 ここで親鸞の次の言葉が俄然光ってきます。『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば ひとへに親鸞一人がためなりけり』、これは親鸞の言動を弟子(唯円とも)が書き留めたと言われる歎異抄の一節です。阿弥陀如来はすべての衆生を救うため、気が遠くなるほどの時間をかけて思いを巡らし、願を立て、そしてそれは既に成就されている、だから信ずる者はみな救われる、というのが浄土の教えです。親鸞は、その阿弥陀の計らいはすべて自分に向けられたものである、と言っているのです。

 そこには阿弥陀と自分の他は誰もいない、弟子はもちろん、敬愛の限りを尽くした師の法然さえいない、阿弥陀と向き合っているのはただ自分ひとりだけ、そのような、絶対の存在の前に佇立する究極の個の認識があります。

 ああ、これだ、これがわたし(あるいはわたしたち)が到るべき境涯であり心象であろうと思ったわけです。もちろん、合気道家であるわたしたちにとって向き合うべき対象は開祖でありその理念です。ただし、阿弥陀様は自分のほうから救済にやって来てくれるのですが、開祖のもとにはこちらから礼を尽くして(つまり真摯な修行を積んで)迎え入れていただく必要があります。それに手を貸してくださるのがわたしたち各々の直接の師であるということです。いかに生きるか、なぜ生きるかという、哲学や宗教における永遠のテーマを、わたしたち合気道家は開祖と向き合って合気道という方法で乗り越えようということです。 

 合気道が武術から発展したものである以上、各人の工夫はあってしかるべきです。しかし、それが開祖のお示しになった理念から外れるものであっては、ことの善し悪しとは別にそれは既に合気道とはいえません。別の武術です。このような当たりまえのことになかなか行き着かず、山の麓でどうどう巡りしていたようです。ご尊影やお言葉はいつも身近にあるのに何かのフィルターを通してしか見ようとしていなかったということでしょう。

 難解を極め、しかも広大無辺な開祖の教えですが、身にまとった夾雑物を取り去って素直に向き合えば一番肝心なところが見えてきます。

 そしてそれは、わたし一人のためでありました。