合気道ひとりごと

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180≫ 二態二種二面

2012-06-04 16:38:42 | インポート

 先般、第50回全日本合気道演武大会が挙行されました。節目の大会にご出場された方々に敬意を表するものです。ネット上にはその映像がたくさん投稿されており、観に行けなかった者にとってはとても便利でありがたいことです。

 わたしの場合、このような行事があると何かにつけ人のアラ捜しをして、いちゃもんをつけたがる性向がありますが、ごく身近な人から『そういうことは自分がやってから言いなさい』と諫言をいただきました。ごもっともです。

 わたしは昭和40年代の後半に、全日本演武会がまだ日比谷公会堂で行なわれていたころ、O道場から白帯を締めて出たことがありますので一応演者の気持ちはわかっているつもりですが、その後は傍観者であり続けています。ですから、自らは安全圏にいて勝手なことを言い放つのはたしかに卑怯で身の程も知らず、また年甲斐もなく料簡の小さいことではあります。だから今回は批判ではなく批評ということでご理解願います。

 さて、中堅、若手の方が張り切って演じておられる一方で、大御所たるご年配の先生方は淡々とした演武を見せてくださいました。その陰には永年にわたる修練があり、また幾多のご苦労があったことを思えば、いぶし銀の輝きといいますか見た目以上の深みが感じられます。また、ある程度の年齢で数分間の演武を続けることは体力的に結構大変なのですが、しっかりこなしておられるお姿から日頃の鍛錬がしのばれます。

 加えて、比較的基本の技や動きを採用しておられることにも、その意図を推量させられ興味をひかれました。やはり、演武の意図といいますかテーマをはっきりさせて演じていただくことで、直接の師弟関係にない者にとっても学ぶべき点が指し示され、観る意義が生まれます。

 演武会に出る目的に、わたしは二種類あると思っています。ひとつは日頃の稽古の成果を披露すること。もうひとつは自分の考える合気道を外部に紹介、開陳することです。前者はどちらかと言えば年少者や若手、中堅の方々、後者は指導的立場にある方々の持分ということになるかと思います。もしそれが逆だと、大いに落胆するか反対に逸材を見出すことになるか、それはそれで面白いのですが。

 そのようなことも含め、演武会のあり方はもっと工夫されてよい段階にきているかもしれません。

 話は変わりますが、特定の世界にだけ通用する価値観があります。その他の、つまり一般の人にとっては価値のないことで優劣をつけ、結果に一喜一憂するのは当事者ばかりという、考えてみれば他愛ないものです。

 合気道の世界にもそれはあって、とりわけわたしなどは爪先の向きがどうだとか肘の開きがどうだとかに気を向けながら稽古を続けていますが、そんなのは部外者にとっては本当にどうでもいいことです。でも、世の中のあらゆることはどうでもいいことで成り立っているのではないかと思うこともあります。その、どうでもよいことの中の比較的比重の大きそうなものを『大事なこと』ということにしているに過ぎないのではないでしょうか。

 ただ、そう言いきってしまうことは、人間存在の意味を考えるという永遠の命題からの落伍につながりかねません。わたしたちは(わたしは、というのが正しいでしょう)そのどうでもいい合気道というフィルターを通して生きるということの意味を見つけようとしているのですから。であれば、合気道にはそれに見合う中身(フィルターとしての能力)がなくてはいけません。

 ではその中身とはどういうものであるか、それが前回触れた武術性であると考えています。すなわち戦う技術です。その概略については既に述べていますが、もうひとつ付け加えておきたいと思います。それは、武術性というものの二面性についてです。どういうことかと言いますと、戦う技術というのはとりもなおさず勝つための、もしくは負けないための方法ですが、同時にそれは何もしなければ負けるという状況を前提に組み立てられているという事実です。勝ちを考えるということは負けを考えることとイコールです。

 あるいはまた、取りと受け、あるいは仕太刀と打ち太刀といってもよいのですが、それらは本質的に同等の理合のもとにあります。たまたま異なる役割を課せられているに過ぎません。その、ほんのちょっとした違いが勝敗を分けるという厳然とした事実は歴史上の武術家の多く語るところです。

 どうもわたしたちの頭は、生きることを考えるときに、死ぬことを触媒にするとわかりやすくできているのかもしれません。流行りのポジティブシンキングとはだいぶ様子が異なります。

 そのような、二面性から生まれる緊張感が普段の稽古に生かされているかどうかが、武術性を語る上で、そして武術性から導きだされる精神性を考える上で重要ではないでしょうか。合気道という武道が、人が生きるために益するか、あるいはどうでもよい営みであるか、ここが分かれ道になると思います。

 最初の話題にもどれば、わたしは以上のような側面を演武で表現できているかどうかということに興味をひかれます。合気道は動く禅だと言う方もいます。そうであれば、動きのなかに生きるための哲学が込められているはずです。それを表現してこそ武技を披露する意味が立ち現れると思うのです。