カタというのは実戦のひな型(現代風に言うとシミュレーション)ではないという論を聞きます。カタは技というものを利用した身体鍛錬法であり、武道的体遣いを身に付けるための方法論であるという考えです(わたしも概ねその考え方を採用しています)。したがって、カタに習熟しても、それだけでは多種多様な局面を生ずる実戦の役には立たないということになります。一面において、それは真実でありましょう。
だから昔風のカタ稽古ではなく、自由攻防での練習をしないと武道本来の強さは身につかない、という論にまでなるのですが、その結論はちょっと待ってくださいと言わざるを得ません。もちろん試合がある武道では自由攻防の練習をしないことには始まりませんし、試合のない武道(合気道のように)でもそれで得られる技能や感覚は貴重です。しかし、ここでいう自由攻防でさえも実戦とはだいぶかけ離れた状況設定であることに変わりありません。
ちょっと話はとびますが、わたしはプロレスラーの受け身の能力を高く評価しています。リングがいかに弾力があるとはいえ真っ逆さまに落とされたり、リング外の床にたたきつけられたりしてもピンピンしてるのは、想像を超える練習の賜物でしょう。ところが、そのプロレスラーでさえ、アルティメットファイティング(何でもありの格闘技戦)では苦戦を強いられています。だいぶ以前のことですが、日本でも人気のあったクラッシャー・バンバンビガロという巨躯のプロレスラーが、その格闘技の専門の選手に顔面パンチで手もなくやられてしまった試合がありました。やはり元横綱の曙が顔面パンチでひっくり返されたこともあります。何でもありとは言いながら最低限のルールはあるわけで、そういう中ではそのルールに則った戦闘法に長じた者が有利なのは当然です。この場合、素手(薄いグローブ使用もあり)での顔面パンチがギリギリ許容範囲にある攻撃技です。
それとは違いますが、アントニオ猪木がモハメド・アリのパンチを避けるためにリングに仰向けに寝て戦ったことは今でも語り草です。そのアリは後にパンチドランカーになってしまいました。ボクサーの職業病と言ってしまえばその通りですが、もともとアリほど相手に打たせなかったヘビー級ボクサーは珍しいのですけれどね。多くの国で公認されたスポーツですから言っても仕方ないことですが、顔を打たれるのが専門のボクサーでさえ、パンチ一発でリングに沈むことも稀ではないように、顔は鍛えようがないし、脳にも近いので本来打撃を受けてはいけないところです。
さて、そのアルティメットファイティングでさえも厳密な意味での実戦ではありません。というより、実戦というものは反社会的組織や個人による闘争などを除けば(この際、戦争は論外です)普通の社会生活の中ではほぼあり得ません。実戦と言うのは、敵を制圧するためには人間性を押し殺し、目潰しをしようが金的を攻めようが、あるいは武器を使っても、多人数でかかっていっても構わないのです。ですから、体育、知育、徳育の手段として、あるいはまた、実際に発生するかもしれない危機的状況への対処法としてさえ、一般市民が実戦を想定した格闘技あるいは武術を練習するのは精神的に不健康だしリーズナブルとは言えません。
そうであるならば、合気道家としてはここはもう一度原点に戻って、大先生が遺してくださった合気道を、その想定された局面において有効性をもつ程度には練り上げておくことが理にかなうのではないでしょうか。つまり、間合いや相手の動きなどが(たまたま)こちらに都合が良い状況になった時くらいはきちんと、必勝の技としてこなせるようにしましょうということです。これは、限られた局面とはいうものの、実戦の一場面であることには違いないという認識をもつことによって、合気道の場合は特に馴れ合いになりがちな稽古の矯正に役立つのではないでしょうか。
ところで、合気道で求められる動きは比較的自由度が高く、体格や体力の違いによって(あるいはまた考え方の違いによって)基準からのある程度の逸脱が許されています。しかし、本来カタというのは、ああでも良いしそうでも良いというようなものではなく、初動から終末までこうでなければならないと定められているものです。ですから合気道は厳密な意味でのカタの武道ではありません(そのわりに、これまでさんざんカタカタ言ってますが)。
合気道は主に柔術からの発展形と思われていますが、わたしはむしろこれから発展してカタ武道になっていくのだと思っています。そのためには、技法の細部については何でも良いというのではなく、こうであらねばならない、あるいはせめて、この方がより良いといえるくらいの基準がなければならないでしょう。その上に個人技、工夫伝があることは否定しません。先般の世界標準はそのたたき台のつもりで提示したものです。
ここで、合気道で(上記のような意味で、限られた局面での)実戦を想定した稽古をする場合、やはり当身の扱いを考えないわけにはいきません。しかしながら、当身が七分といっても、『(取りが)打てるけれども打たない』ことで合気道の思想を表現することもあります。それを大事にするなら、露骨なかたちで当身を入れるカタを表演するのではなく、当身が入っていることをそれとなくわからせるような手遣いや体遣いを身に付けることが大切ではないかと思います。打ってから技にはいるのではなく、技に伴う動きがそのまま当身に変化しうることを示すことができればそれでよいという考えです。
たとえば、内回転投げのように受けの脇の下をくぐる動きの場合、(こちら左半身として)右裏拳で受けの顔面を打つような動きをすることがあります。これはこれで特に間違いというわけではありませんが、いかにも打ちますよというかたちが合気道らしくないと感じますし、実際その有効性は検証が必要です。そこで、左に移動するのに乗じて、右開掌でフックぎみに受けの顔面をなでるようにしながら、その流れのまま手を下にもっていくと今度は右肘が受けの右脇腹に当たる位置に来ます。そこからくぐって行けばよいので、これによって、当身として表現しなくても二連打があることが理解できます。
また、手取りの場合、取られる手は単純に取られるためにさし出すのではなく、出した手が本来そのまま当身の手であることに意識が向けば、特別に当身のカタを組み込まなくても普段の手遣いで当身ができることに気づくはずです。同様に、踏み出した足や膝は容易に蹴りに変化しうることも知っておくべきでしょう。
このような動きの意味の二重性は古流武術にはよく見られることです。たとえば剣術において、相手の打ちこみに対し正眼から右足を引いて受けるという形がありますが、これは門外に向けての、いわゆるウソであって、本当は左足を進めて小手を打っていくというのがあります。このように間合いを変えることによって防御技が攻撃技に変化するという教えが他にいくつも伝えられています。人に見られるところでは本当のことはやらないという用心です。ただし錬体法としては足を出そうが引こうが効果は同じということです。
それと似ていますが、ここで述べている合気道の場合の二重性は用心のためというよりは哲学と美意識に基づくものといえるかもしれません。いずれにしても、合気道の技には一つの動きの裏にもう一つの働きがあるということを知っておけば、特に上級者にとって後々技法の奥深さを味わうための道標になるでしょう。