合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

91≫ 特別寄稿 その3

2009-01-26 12:11:58 | インポート

 わたしの最も敬愛する道友 TAKE 様より、この度また貴重な文章をお寄せいただきました。このブログをご覧いただいている皆様(もちろんわたしも含めて)のために、ご多忙の中、貴重なお時間をさいてご執筆いただいたことに、ブログ管理人として厚く御礼申し上げる次第です。

 今回は、直前のテーマである天地投げや、氏の恩師でいらっしゃる故西尾昭二先生ならびにご関係の方々、また氏ご自身の修行の足跡など、内容多岐にわたる長編です。

 技についての解説では、ご苦労されて書いてくださったのが、わたし自身の経験上よくわかり、ありがたい気持ちでいっぱいです。また、西尾先生に関するエピソードや氏ご自身の修行の様子からは、いわゆる一番弟子としての気概が伝わってきます。それにひきかえ自分はどうだったかなど反省を求められつつも、学生時代に接していただいた時と同じように改めて励ましを頂戴したような気持ちです。

 ブログの読者の皆様にこのような寄稿をお届けできることも合気道がとりもつ縁のひとつでありましょう。ブログをやっていて良かったと思えるひとときです。

===============特 別 寄 稿===============

 

Agasan  様      
                            神奈川  TAKE
 
 昨年は、Agasanのこの欄と出会えて幸運でした。今年もよろしくお願いいたします。

「天地投げ・西尾先生と大竹先生のことなど思いつくままに」

 「合気道ひとりごと」では、いつも気にかけてくださってありがとうございます。過分の誉め言葉をいただくと、稽古を続けている以外は、ただのおやじですから落ち着かなくなります。お言葉に甘えさせていただいて、今回は、少し多く書きたいと思います。

 今月7日に私はロシアのセントピーターズバーグから戻りました。夕方に帰宅し、8日から勤務にもどりました。10日には本部での支部・道場代表者会議に出席し、道主はじめ本部の方たちにご挨拶いたしました。特に、鳥海さん・安野さん(文章では、いつも「先生」とさせていただいておりますが、「さん」とお呼びしたほうがお互いに話しやすいのです。)とは、しみじみ年をとったねと話をし、感慨ひとしおでした。道主のご子息とも話をし、労をねぎらいましたが、これから重責を担っていくであろう生活には、余人にはうかがえない苦労がありましょう。

 さて、13年間教えているセントピーターズバーグ(サンクトペテルブルグ)の中堅指導者たちの稽古の重みと技の水準には、改めて喜びを覚えました。ただ、予想通りですが、多少停滞気味の指導者も出てきたという印象でした。これは当然のことで、間違いなく順調に稽古を続けてきた証拠です。私自身もかつて経験したことで、これからどのようにして彼らが自分を高めていくのか、楽しみです。念のために申し添えますが、彼らは、12~13年前に私に出会いましたが、そのときすでに各自10~16年の合気道歴がありました。また、合気道入門以前に、テコンドウの長い経験を持っていた人もいます。
 ですから、長い人は、すでに合気道歴30年近くあり、その上に10年以上の他武道の経験があるのです。また、そういう人でさえ、いまだに毎日稽古に励んでいる訳ですから、日本にいる私たちとは条件が異なります。彼らが、伸びていくための道を今後どのように見つけていくのか、興味津々です。

 彼らに対する気持ちの一方で、私は、日本の合気道五段は言うまでもなく、三段・四段という段位を持つ人なら、どこの国に行っても、相手を圧倒する技の冴えを見せるようであってほしい、また、相手を思いやる気遣いを持って稽古に臨むという余裕を示せるようであってほしいと願っています。さらに、六段以上の方は、世界中どこに行こうと敬意をもって迎えられるようであっていただきたいと思っております。私も、日本人合気道家ですから。

Agasanの「天地投げ」に触発されて、私の取り組み方を話します。

 天地投げは、見た目はわかりやすく、また、やりやすそうに見えますが、これがなかなか簡単にはいかない稽古技なのではないかとagasanと同じように私も思います。多くの人たちがうまくいかないなぁと内心思いながら、しかたないなとか、まぁこんなもんだろうとか思いながら、エイッヤッという感じでやっつけているというのが実際なのかもしれません。
 しっかりした技を所有しておられる先達は、一般的な天地投げの稽古を見ながら、合気道の人たちはなぜ自分の心の言葉に耳を傾けないのかなぁ、なぜあんなことをして平気なんだろうなぁなどと、つい考えてしまいがちになります。しかし、すでに身につけてしまった人は、造作もなくあたりまえのように動いて天地投げを示しますが、これから身につけようとする方たちにしてみれば、一般的な稽古技の中でこれほど厄介なものはないのかもしれません。
 天地投げではありませんが、同じように両手を一方は上に、他の一方は下に作り(置き)、後ろ回りに捌き、体を沈めて崩れた相手を投げて、不自然で苦しい状態から開放するという稽古技の一つ呼吸投げは、さらに難しくなります。あまり知られておりませんし、できる方も減ってきましたので詳細は省きますが、肩の沈みや技のはじめの段階での腰の背中側の緩みをはじめとし、数多くの点で再確認が必要になり、ある程度の段位を持つ人(三段以上)にとっては、たいへん有益な稽古技です。
 さて、話を天地投げそのものにもどします。この稽古技は、基本的な場合は、1・2と歩んで(勿論普通の生活での歩みとはやや異なります。)、相手を崩し、片方の腰を浮かせ、不自然な状態にさせ、後方に受身を取らせます。応用技になりますと、後ろ捌きとなり、体の軸をぶらすことなく、動作を行います。入り身投げと同様に、相手の体は自分の外回りをしますから、相手の上体は自分より大きめに動き、下半身はさらに大きく動かさざるをえず、ばたばたとしたり、外にふられようとしたりします。未熟な受けの人は、ばたばたした自分の足(脚)捌きを反省し、そうならないように努めることになります。
 基本の「前に出る天地投げ(勿論、まっすぐ前に出るということはありません。)」にしても、「後ろ捌きのやや困難な天地投げ」にしても、基本的な体の働きは変わりません。体そのものの捌きも、上になる手の働きも単純ではありませんが、下になる手の捌きは、重要ですが、それほど難しくはありません。回転投げの際、相手の脇下をくぐり抜ける前に、後方斜め下(つまり、隅)に相手を崩しますが、それと同じです。人差し指と中指先で相手の後ろ斜め隅を指し示すようにしますが、その前に下の手が描く軌跡は重要です。直線的に働くようではいけないでしょう。一度は自分の中心を通過します。
 この下の手も、上の手も自分の体の中心線を基に働いていきますが、このとき上の手の手首根本というか掌底やや下と肘の位置は大切です。肘がいい加減な場合を、多く見かけます。基本の天地投げの場合、上に行く手はやはり人差し指と、それに次いで薬指が棒のようにまっすぐにはならない状態で方向を示していきます。当然ですが、相手の体の中心線(正中線)を相手の前で下からたどり、はじめは顎を攻めるような方向で上がっていくようにします。最初のわずかな動きで相手は崩れますが、それは両手だけの働きではなく、実は全身の協調がものをいうのです。相手が崩れ始めたときに初めて足が動きはじめますが、このタイミングは他の多くの稽古技にも共通したものです。
 天地投げもまた技の起こりの段階は、舌が上(前歯の裏側やや後方辺り)に力が込められない状態で着いているべきです。

 下(隅)に崩すと言っても、近年は回転投げもかなり変質していますので、こうした説明が理解していただけないという可能性があります。居ついた体ではなく、相手の力を自分の中に受け容れ、その瞬間自分の斜め前下(隅)方向に(体を移しながら)抜けさせるという感覚です。一足長ほど前方に体の軸を移しながら、帯びた刀を鞘から前方下に抜ききる感じでしょう。(わかりにくいことと思いますが、残念ながら、言葉で説明できる部分は、技のごく一部分でしかありません。ご容赦願います。)
 前に歩む基本の天地投げにしても、後ろ回りに捌く天地投げにしても、触れ合う直前の体の緩みは同様です。硬い体のままで技に入ることは、体を束縛したまま動くということですから、単純な体捌きや手の捌きしか生まないでしょう。そうした技は、体格・体力が同じか、下の人・実力的に下の人(簡単に言うと、段位が下の人)相手の稽古でしか通用しないはずです。
 合気道の稽古の楽しみの一つに、自分より大きな相手を崩していくという点があります。天地投げはそのことを最も実感しやすい技の一つだと思われます。ただ、ぶつかったり、力任せに行ったりして相手を倒すというのは、悲しいことです。若い方達にも、大きな人にがっちり持たれても、苦もなく崩せるような合気道家になっていただきたいと期待します。
 ところで、合気道の稽古や演武全般に言えることですが、天地投げに限らず、近年は受けをとる相手をやたらに強く投げつけ、受けの人もまたむやみに大げさに、そして、派手に受けをとるということが当たり前になりました。天地投げも他の技もそのようなことを行うべきではないと、私は思います。あくまでも自然に行うべきであって、何もしないのに受けが大仰に反応したり、かってに思い込んでわざわざ受けが自分から崩れたりするという姿は、あまり見よいものではありません。
 素人にうける方法を誰かが思いついて、あるいは、受けが相手の先輩を格好良く見せるというサービスの必要性を感じてやりはじめたのが、伝染したのだろうと思われます。これは、あまりにも素人的です。
 少しまともに武道に取り組んだ経験のある人なら、たちどころに見破るでしょう。恥ずかしいことです。合気道の投げは、腰投げ等を除いて、ほとんどはすべて終わった段階で、相手を解き放ってやるという意味を持った投げだと思います。柔道の投げとは根本的に異なるのです。柔道の投げは、相手からポイントを奪うもの、自分がポイントを取るものです。合気道の投げは、かっこうをつけるものではなく、相手を開放してあげるものと考えます。
 講道館で長く柔道を学び、全日本大会に出るような人・東京選手権上位の人や、かつて全日本大会で活躍した六段から七段の人たちと乱取を続けたとき、私は、そのすばらしさに素直に感動しました。東京都の選手権大会で三位に入った人との対戦のとき、開始数秒後に頭の高さまで跳ね腰で跳ね上げたこともありましたが、柔道の技の合理性に我ながら驚いたものでした。その人は、そのとき初めて出会った人でしたが、私より身長が10センチ以上高く、体重は80kg台前半でした。相手が私よりほどほどに背が高かったので、私に勝機が訪れたのでしょう。そのときは相手の歩き方を観て、跳ねることができそうだと思ったのですが、これはたまたまのことだったのでしょう。柔道を学び、経験したからこそその良さ・すばらしさを知ることができました。同時に、合気道家として柔道の技のマイナスの部分も多少理解できたと思います。私が柔道を学んだのは、本物の投げ技を知りたかったということと、師であった西尾昭二先生(講道館六段・武徳会八段)の柔道経験を少しでも追体験してみたかったということに理由があります。
 柔道では体重差が1.3倍以上あるとなかなか技がかかりません。ただ、当身や絞めがあれば別でしょう。そのことがよく理解できました。
 柔道を止めたのは、十年ほども取り組んでいるうちに意欲が減退してきたこともありますが、西尾先生のカバンを持って御伴しているときに、ある日言われたことが一番の理由です。信号待ちのときでしたが、私を見て、「T君、前が甘くなって来たね。もういいんじゃないか。」と急に先生が言われました。私は思わず「やっぱりそうですか。自分でも感じてはいたんですが。」と答えていましたが、「うん。どうしてもね、柔道をしているとそうなるんだよ。」とおっしゃっていました。当然、先生は気づいておられたと思いますが、私は黙って講道館に通っていたのです。
 
 話をもとに戻します。

 天地投げが技として成立しているかいないかを判断する場合は、上の手の働きがまず重要になります。
私は、はじめの部分での、指先、手首、肘の動きの関連を、次に下の手の働き、最後に相手に後ろ受身をとらせる場合の受けと取りとの体の状態を観ます。このとき、胸と胸がぶつかる形で技が行われているなら、それは困った問題です。技ではなく、体力や体格・段位・立場などに頼って、技をごまかしていることになるからです。正しく行えば、天地投げで胸や肩がぶつかることはありません。
 ぶつかって行う天地投げは、大きな人には通用しないのですから、良い技とは言えないでしょう。しっかり行えば、胸と胸がぶつかることはないはずです。また、最初の段階で上手に崩すことができれば、最後に肩や胸を衝突させて相手を倒すなどということはないはずだと思います。
 
 基本的な前に出る天地投げにしても、後ろ捌きの天地投げにしても、技の細部、つまり、微妙な部分に妙味があります。自分の身体や心と相談しながら、上達をはかるのは面白いことです。たとえば、上の手は、西洋のムチのようにしなやかで、しかも安定した肘があった上で、踊る蛇のように、そして、前腕の骨を中心に回りながら働いていきます。わかりにくい表現で申し訳ありませんが、とうてい言葉では説明できない働きなのです。許していただくしかありません。

 天地投げという稽古技の良い点の主なところは、ぶれない体の軸作りと、滅びつつある上の手の合わせ、それと同時に行われる崩しであり、間(ま)の感覚作りにあるでしょう。上の手は、うまくできれば、上段突きの応じ方に結びつくはずです。

 学生時代に雑司が谷の想錬館で、大竹魁先生から「TAKE君、それは違う。違うんだよ。」「開祖の手は、そうじゃなかったんだ。自分はできないけれど、こんな感じだったんだよ。」とたった二人の稽古で、多くても高山さんという先輩との三人の稽古で、何年もご指導を受けたのを思い出します。天地投げだけで2~3時間費やしたこともあり、今、思い出せば至福の時間だったと思います。大竹先生は、開祖と親しく、炬燵に入って二人で一杯ということがしばしばあったということでした。黒岩先生は、開祖とプロレスをテレビで観ていたとおっしゃっていましたが、どちらも目に浮かぶようです。
 
 大竹先生は、戦時中、東京の首都圏防衛隊の高射砲隊の隊長でした。戦後は、公職追放の後に防衛庁(現在の防衛省)を経て、退官後は稽古場の後輩に当たる方の経営する民間企業に一時期勤め、その後は、日本で最も古い大学の一つであるK大学の弓道部監督を勤められました。大竹先生は、弓道で日本選手権をとられたことがあり、当時、すでに居合道の高段者でした。本部道場ではさまざまあったとのことで、学生時代は稽古の後、池袋の飲み屋や喫茶店でそれらのお話をうかがうのが常でした。
 大竹先生は藤平光一先生と親しく、合気会の最も古い師範のお一人で、武道界では故西尾先生の先輩でしたが、私たちの前では、常に「西尾さんは」と敬意を持ってお話されていました。
 西尾先生は、日本の空手界が最高段位三段位のときに、抜群で三段になられ、その後、最高段位が六段になった、つまり、六段位制になったときにすぐに六段になられました。そのときの稽古仲間の方や後輩は、その後、八段・九段になられました。たとえば、塩川先生は、ある空手の流派の宗家ですが、西尾先生と親しく、そのおかげで西尾先生を通じて、私たちに海外で活動する際の助言をくださったことがあります。剛柔流の山口剛玄先生・糸東流の故坂上先生も、西尾先生とは親しかった先生方でしたが、私が若かったころ、空手界の古老の話では西尾先生は別格だったということでした。たいへんうれしい思いがしたことを思い出します。
 西尾先生は、柔道の講道館での戦後になっての入門第1号だったそうです。当時は、稽古に行っても、誰もいなくて独りで稽古して帰ることがしょっちゅうだったと伺いました。
 西尾先生の所属は講道館と同時に「赤川道場」でした。赤川先生は日本選手権を取られた方でした。西尾先生は、小さいながらも地獄と言われた赤川道場の塾頭を務められ、日本代表となるような各名門大学の学生たちにも稽古をつけていたのです。
 赤川道場は、当時は日本最高の厳しい柔道の道場で、常に日本トップの柔道家たちが稽古に励んでいました。西尾先生も当然日本選手権に出場するつもりでしたが、西尾先生は大きな相手と稽古中に得意技の一つの支え釣り込み腰で鎖骨を骨折し、断念したのです。西尾先生のその当時の稽古仲間は、世界選手権をとった曾根先生や、オリンピックの代表監督ともなった醍醐敏郎先生です。(「先生」としたのは、私も10年間柔道を講道館で学んだ講道館の塾生であるからです。)また、醍醐先生と同時に九段となられた大沢慶巳先生は、講道館時代の西尾先生(当時は、「竹内」姓)の先輩であり、ヨーロッパで高名な柔道師範であった阿部先生は、親しい後輩でした。
 フランス合気道連盟とフランス柔道連盟を立ち上げ、フランス武道の師とされている中園先生は、西尾先生と最も親しい武道家のお一人でした。
 西尾先生と私がアメリカに行った折、フランスから離れてアメリカのサンディエゴで療養しておられたのですが、若いときから懇意にしていた西尾先生に電話をされ、私にも声をかけて下さって、「西尾先生とあなたにお会いしたいのですが、体がいうことをきかないのでごめんなさい。電話でお話しするだけしかできません。これからもがんばってください。」とおっしゃいました。
 中園先生は、私たち日本の若い武道家にということで、「あなたも立ち技だけでなく、組みうちを身につけるべきです。必ず役に立ちます。いい先生の弟子になったのだから、しっかり学びなさい。」と最後に話され、涙ぐんでおられた様子でした。伝説の柔道家であり、合気道家であった中園先生から励ましていただき、ありがたい気持ちで胸がいっぱいになったことをよく覚えております。
 
 その後、私は自分の後輩の一人で、よく私の家に泊まって武道修行に来ていたヘルシンキ大学の卒業生のM君に、「君は足腰が弱い。柔道を稽古して足腰を作ったほうが良い。」と柔道を勧めたのですが、彼は、結局合気道より柔道が向いていると判断し、柔道の専門家になりました。ヘルシンキ大学の柔道部の監督になりましたが、フィンランドに帰国後は西尾先生の後輩の阿部師範の弟子になったのです。
 
 西尾昭二先生からは自分の子供だと言っていただき、私は長く助手(受け)を務めましたが、幸運なことでした。人生の中であれほど別格の武道家に出会えたことは、何ものにも変えがたいと思います。
 大相撲出身の壇崎氏に「あんたは僕のところで合気道をするより、居合道をやった方がいい。居合の方が向いているのじゃないか。」と勧めたのは、西尾先生でした。剣道の羽賀九段に依頼されて高弟たちを仕込んだり、なかなか横綱になれなかった栃の海関たちを仕込んだり、レスリングでオリンピック金メダルをとったW氏やプロボクシングの高名なジムの会長や世界チャンピオンに助言し、実際に教えたのも西尾先生でしたが、日本最初のプロボクシング世界チャンピオン白井義男氏や太氣拳創始者の沢井健一先生も、親しい稽古仲間でした。
 沢井先生が、いったんは追い出した不肖の弟子の大山氏が始めたばかりの極真館の会員指導を懇願され、稽古をつけに行く前に、西尾先生が教える巣鴨の研修間道場に来て、ちょこんと座っていたことは、仲間内ではよく知られている話です。
 私の家に泊まってくださり、二人で飲んだときは、大相撲現役の前頭筆頭力士を政治家や大蔵省関係者数百人の前で、続けて二度まで頭の高さまで跳ね上げた話や、昭和20~30年頃に当時米軍最高のレスラーやボクサーたちを何人も立てないほど、しかも、怪我しないように何度も何度も倒し、最終的には米軍の最高司令長官から米軍の指導を懇願され、断った話などで、盛り上がるのが常でした。
 
 西尾先生は、昭和の時代に空手界の古老の間では有名で、実は空手界最高段位のまま合気道の開祖の弟子になりました。空手界は、その後十段位制になりました。また、空手時代の前は、前述の通り、柔道で日本選手権者や世界選手権者となった方たちと、対等か、あるいはそれ以上の立場での稽古仲間でした。西尾先生は、ご自分の柔道・空手経験から、合気道にも段位制度があって良いのではないかと考え、仕組みを提案されました。

 柔道の講道館で、大道場で稽古をする際になぜか大沢慶巳先生がいつも私を見てくださり、嘉納治五郎先生の最後の内弟子であった田中九段が、なぜか私を乱取の相手に選んで下さったり、政府や外国政府関係者の前での演武の際に田中九段の受けとして指名されたりしましたが、もしかすると、西尾先生の面影を私から感じたのかもしれません。実際はそのようなことがあるはずはありませんが、ついそう考えてしまいます。その当時、私の身のこなしは、西尾先生のそれに似ていた部分がありました。もちろん、それは似ていただけのことであって、中身は西尾先生の数十分の一でしかありません。
 
 講道館での柔道修行を止めて数年後、柔道日本選手権者で「赤川道場」の赤川先生のお孫さんが私の職場に入って来ました。不思議な縁です。また、そのころ、私に柔道の基本を教えてくださった鮫島先生は、オリンピックの日本代表女子の監督になられました。

 私は、その数年前から、海外での修行の必要性を痛感していました。自分の稽古がぬるくなっているのがわかっておりましたので、何とかしなければならないと思い続けていたのです。

 初めて、アメリカに行き、稽古の前に更衣室で着替える際、白人たちから笑われたことを忘れません。小さな黄色いやつと思われたのでしょう。8~9人の大きな人たちが、固まって私を見ながら笑ってニヤニヤしたり、視線を向けたまま声をあげて笑ったりした姿は忘れられません。その時、更衣室にいた他の40~50人は、まったく無視でした。
 その日は、激しい稽古をしました。相手が怪我をしないように気を使いながらではありましたが、更衣室で笑った人たちを相手に、何度もこれでもかこれでもかという稽古をつけました。当時は、まだ、
私も若く段位も四段になったばかりだったと思います。ここで認められなかったら、自分は話にならないと思っておりましたので、ある意味で必死でした。幸い、多くの地域・道場から、来てほしいという
依頼がくる結果となり、それを受けてようやくほっとしました。

 さて、最後に一言申し上げます。私が身体を鍛えたのは、理由があります。小学生のころからスポーツをはじめ、武道にも取り組みました。雪国の生まれですから、冬場は屋外での練習はしがたいのです。
 また、高校時代は陸上競技の選手でもありました。110Mハードルで県の記録を持っていましたし、5種競技(100M・走り高跳び・110H・砲丸投げ・400M)の選手でもありました。ですから、
身体は鍛えました。砲丸投げは、この小さな体で13mほど投げましたから、わかっていただけると思います。
 ですが、西尾一門の当時の稽古はすさまじく、特に、就職後に加わった稽古場のいくつかは言葉にならないほどでした。一日の稽古で体重が5~6㎏減るのが普通で、日々の稽古のために、私の70㎏の体重はいつも62~3㎏だったのです。また、一門の方々はそれだけ実力があり、プライドも高かったように思います。そうした稽古の中で、多くの人は、稽古についていくのがやっとでした。 ですから、頭の中はほとんど死んだ状態で、ただ、必死にがんばって先生について行き、何も考えずにやるだけということが多かったのです。
 私は、それは間違っていると思っておりましたから、どんなに疲れても先生や先輩の言葉は、少しでも多く理解し、吸収せねばと努めました。時間があれば、走り、樹木相手に打ち込みを繰り返し、立ち木を何本も枯らすほど木剣で切り下しをしました。毎日の稽古とは別に、朝や昼休みに5~8km走り、体力を高めました。
そのころは、5km走なら、17~18分程度がノルマでした。その後は、120段の階段を5本から15本程度ダッシュしたり、大ウサギ跳びで昇ったりでした。それだけではなく、稽古が終わり、その後の野原での真夜中の独り稽古を終えた後や早朝などに、腹筋のシットアップや腕立て伏臥などをそれぞれ数百回していました。これは、大学時代には毎日1000回続けたことですから、苦ではありませんでした。
 そうしたおかげで、先生方が話をされながら稽古を進められるとき、体力にゆとりがあって言葉をもらさず聞き取ることができたと思います。毎日、心に残った戒めや指導内容をノートに記すのがある意味で楽しみでした。素振りは、20歳ごろから40歳代まで、気が遠くなるほど毎日真夜中に行いました。野良猫や野良犬と野原で眠ることがよくありました。
 しかし、それらはやみくもな稽古鍛錬でした。合気道界では誰も指導できなかったからそうした結果になったのです。当時は、やむにやまれぬ気持ちがあり、ただ、そうするしかなかったのでした。木剣を抱いて寝たり、10年も毎日稽古着で寝ていました。野原で、朝5時ごろ目がさめるというようなこともありました。吉祥丸前道主は、「一人稽古は、危ないよ。落とし穴がいっぱいある。」と教えてくださったのでしたが、それは正しいことでした。
 
 気違い(クレージー)のような稽古生活でしたが、当時は、木剣の扱い方をはじめ、誰も稽古の仕方を教えてくれず、やみくもにやるしかなかったのです。愚かなことでした。
 結婚したばかりのころ、自宅から1kmほど離れた広場で夜中の1時ごろ刀を振っていたとき、人の気配がしたので、遠くの植え込みを見ると、人が走っていくのが見えましたが、その走り方を観て妻だとわかりました。心配だったのでしょう。彼女は、まったく武道のことには関心がない人だったのですから、気の毒でした。警察官が遠巻きに四人でやってきたこともあります。
 
 今日(1月24日)は、稽古の後、ビールをいただきながら、一気にこの文章を書き上げてしまいました。比叡山に入り、明王院で千日回峰修行の酒井老師や百日回峰修行の方々のお世話をしてきた教え子(五段)が、久しぶりに稽古に来てくれ、たいへん良い汗を流すことができました。そのためと、ようやく時間ができ、週末だということもあり、昔話を記すことができました。
 教え子であるこの人が、比叡山に入って、稽古はほとんどしていないにもかかわらず、強く、そして、うまくなっていくのは、納得できることです。そして、教えた人が上達していく姿を見ることができるのは、ありがたいことです。
 少し前に、宴席で酔ったとき、見知らぬ合気道家にからまれた際、私が合気道家は弱いと言ったその部分だけを取り上げて、ネット等で執拗に非難されることがありましたが、私が言いたかったことは、合気道を志す人は、せめて、他の武道家たちの三分の一程度の努力をすべきなのに、それすらもしないで野狐禅に陥っている人がいるということだったのです。稽古不足を和合という言葉や和気藹々という言葉にすり替え、女性や自分より下の人たちばかりと稽古を続ける人が多いのは、残念ながら合気道の現実です。
 たとえば、剣道の人が1000本の素振りをするなら、300本の素振りをすれば、私たちは剣道の人の1000本の素振りと同じ効果を身につけることができるのに、それすらもしない人が多いのではないかという思いを持っているのです。自分たちだけの世界で、それほどの努力もせずにただ参加しているだけの稽古で上達を願ったり、信じたりするというのは、いかがなものなのでしょうか。

 新年の京王プラザでの賀詞交換会で、黒岩先生にお会いし、お話をうかがうことができました。先生は、酸素ボンベを必要とされていらっしゃいました。先生の目が以前より澄んでいらっしゃったのが印象に残っております。
 また、コートを受け取り、帰ろうとすると、声をかけてくださる方がありました。北海道の合気道連盟副会長をつとめておられる人で、その人も私たちのいた東京のО道場の出身者です。agasanと私がО道場を去るという時期に入門されたので、私たちの後輩にあたります。
 
 読む人のことをほとんど考えず、思いつくまま、気まま・わがままに書いてしまったことをお詫びします。申し訳ありません。文章を整理する時間がなくなってしまいましたので、このままお送りします。
ご容赦願います。

 四方投げや一教に、横や斜め・縦の動作を組み入れて稽古をしております。その中で、受けの身体能力・身体動作を高めるように心がけております。いずれ機会ができれば、これに関して説明したいと思っております。
 
                             TAKE