monologue
夜明けに向けて
 



 七福神の福神の数をなぜ七と限らねばならなかったのか。
その理由の出典とされるのは、仏教教典『仁王護国般若波羅密経』受持品(ニンノウゴコクハンニャ ハラミツキョウ ジュジボン)の次の箇所である。『南閻浮提(エンブダイ)には十六大国・五百中国・十千小国有り。その国土の中に七災難有り。一切国王この難のための故に、般若波羅密を購読す。七難即滅、七福即生、萬姓安楽、帝王歓喜す』
(佐藤達玄・金子和弘著『七福神』木耳社より)
この七難七福という句が七福神の数の根拠とされている。
 日本に第一の福神、大黒天をもたらしたのは伝教大師、最澄という説がどの書物にも認められて有力である。最澄が唐から日本に戻ってきて天台宗を開くとき、守護神として
大和三輪山の三輪明神を勧請したという。それで大黒天の形をとった三輪明神が叡山に招かれ大国主命の神霊として、天台宗の守護神に位置づけられるようになった。
最澄はその姿を叡山、止観院を創設したとき政所(まんどころ)の大炊屋(おおたきや)に安置した。このときの大黒は、弁才天、毘沙門天との三面大黒天と言われている。
以来、天台寺院には厨房の神として大黒天像が置かれることになった。筑前の観世音寺には伝教大師作と伝わる国宝の二臂の大黒天立像が安置されている。 
 それでは七福神がどのように成立してきたのか、その過程を「宮田登著『江戸の小さな神々』青土社」の記述を参考にして考察してみたい。
 まず、はじめに十六世紀末から十七世紀初頭に比叡山の厨房の神としての大黒天が里に伝わり、京都を中心に家の福の神として祀られる。その後、海からの幸を携える恵比須と並べて、より福運を願うニ神並祀になる。それだけに満足せず、三番目の福神として水神である女神弁才天が並べられた。これで三福神となって納まりがよくなった。それに三面大黒の毘沙門天も加わえると四福神となるはずだが四の数を嫌って四福神とはしなかった。そこで五番目に布袋和尚を含めて「大黒、恵比須、弁天、毘沙門天、布袋」の五福神が京都では一般的になった。
 ところが、江戸では十八世紀の半ばにかけてまだ増やそうとする動きがおきた。いろいろとあったらしく福助とお福という女中さんも候補に挙がったがはねられた。なぜか中国道教から福禄寿という馴染みの薄い南極星の神を加えられた。京都の五福神に福禄寿を加えただけなら六神となるので福と禄を福禄寿にまかせ、寿だけを独立して寿老人にというように二体に分ける細工をして無理矢理に七神にしたらしい。そのため、寿老人と福禄寿の違いが今でもはっきりしない。寿老人の代わりに吉祥天を入れたり、なんと酒好きの霊獣、猩々(しょうじょう)を加えていることもある。福の神候補だった吉原、桔梗屋の主人、叶福助は文化元年(1804)、福助人形を売り出して八福神にしようとしたが結局、福神の仲間入りは果たせなかった。八の数では福神の封印とはならなかったのだ。

 福神の変遷を辿ると一神から二神、三神、五神、七神、と遷(うつ)ってきた。やはり、四と六をとばして八に達することのない七五三の封印であった。七福神の詣り方は恵方参りになっていてその年の吉方に参ることになっている。神様神様にはそれぞれ縁日があってその日に詣る習慣があるのだが福録寿と寿老人と布袋には縁日がないことを考えると
ただの数合わせのために入れられた可能性が強くなる。無理に七(四、三)に福神を閉じこめるためにはかなりの苦心があったようだ。七転び八起き、七で転んでいた福神たちも八で起きあがろうとしている。
fumio



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