monologue
夜明けに向けて
 



 わが国の七福神の嚆矢が遣唐使であった最澄が唐から日本に戻ってきて天台宗を開くとき、守護神として大和三輪山の三輪明神、饒速日尊(ニギハヤヒ)を勧請して、大国主命の神霊として大黒天を天台宗の守護神に位置づけたことであったのならつぎに祀られた恵比須についても知りたくなる。
 昔「恵比須迎え」という行事があったという。『近世、奈良で正月二日の早朝、吉野の村民が恵比須の絵像を売り歩いたこと』(小学館、大辞泉より)
 なるほど、この神様の奈良、吉野での人気の程がしのばれる。えびすにはざっと「恵美寿、恵比寿、恵比須、夷、戎、蛭子、胡」と何通りかの書き方があるが、「夷、戎、蛭子、胡」の文字には異なる国からの漂着神という意味がこもっている。古来、様々な神に比定されてきて様々な人が説を立てている。大国主と習合された大黒天と並び信仰されるので大国主命の子、事代主であるとされたり、彦火々出見尊という説もある。『南総里見八犬伝』で出雲の八の復活を描いた滝沢馬琴は『烹雑(にまぜ)の記』中巻で日本書紀を引用して次のように説明している。
『神代巻云伊奘諾尊、伊奘冉尊、巳生大八洲国及山川草木於是生日神次生月神次生蛭児雖巳三歳脚猶不立故戴之天磐橡樟船而順風放棄。
これ日神は第一にをはします。月神は第二、蛭児は三郎なり、故に夷三郎と称す』
 イザナギイザナミの国生みのあと、日神月神の次に生まれた第三子で三歳になっても脚の立たなかった、蛭児(ひるこ)が恵比須であるというのだ。この説は馬琴にとどまらず巷間に広く伝承している。その夷三郎の話を要約して以下に掲げる。
『夷三郎は三歳になっても立ち上がれないので小さな葦舟で九州日向の里から海へ流されてしまう。順風に流されて東へ進み、摂津、西宮の武庫(むこ)の浦に漂着した。海から来たということで人々の尊崇を受け没後、廟が建てられた。それが現在の西宮神社である。』
馬琴が引用した部分のあとを書紀にあたって抜き出すると
『日神次生月神次生蛭児雖巳三歳脚猶不立故戴之天磐橡樟船而順風放棄。次生素戔鳴尊』
 このようにヒルコを風のまにまに樟(くす)船で流したあとスサノオが次に生まれている。「恵比『須三郎』」この名をよく見ていただきたい。エビのスサ郎なんと巧妙にこの名に『須佐男』は隠されていたことか。かれは生まれたとき丁度、海老(エビ)のような姿形であったようだ。かれは遺伝子の関係で立ち上がれない素抜きのスサノオであったのだ。その理由を記した部分を書紀から引用する。
『一書に曰はく、日月生まれたまひぬ。次に蛭児を生む。此の児、年三歳に満りぬれども、脚尚し立たず。初め、伊奘諾・伊奘冉尊、柱を巡りたまひし時に、陰神先ず喜の言を発ぐ。既に陰陽の理に違えり。所以に、今蛭児を生む』
 柱を廻って、まずイザナミ神が先に声を発したことが陰陽の理に反して蛭児がうまれたという。しかし、原因はそれだけではなく回転の仕方にもあった。はじめにイザナミが柱の左から廻り、イザナギは右から廻った。それではうまくゆかなかったのでフトマニ占いなどで天意をはかって時日を決めてもういちど交合を試みた。その部分を抜き書きする。
『改めて復柱を巡りたまふ。陽神は左よりし、陰神は右よりして、既に遭ひたまひぬる時に、陽神、先ず、唱へて曰はく、「妍哉可愛少女を」』
 今度は柱の周りの廻り方をお互いに逆にしたのだ。なぜそうしなければならなかったのか。この記述が意味するところは遺伝子DNAの二重螺旋の矯正である。陽神は左より、が『左縒り』のことで陰神は右より、は『右縒り』ということになる。こうしてエビスの遺伝子の二重螺旋は矯正されたのであった。こうしてたどり着いた大黒天がニギハヤヒであり恵比須がスサノオという奇妙な結論の先にはなにが待っているのだろうか。
fumio

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