てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.7.15.「いじめ」

2023年07月18日 22時10分12秒 | 定例てつがくカフェ記録
7月15日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。

会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは5名の計19名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・本日は「いじめ」というテーマにしてみました。珍しくテーマを問いの形にはしないで、ただ「いじめ」と言うだけになっております。ちょうどこの数日前にも芸能人の方が自殺されたりとかしてですね。どういったことが「いじめ」になるのかどうかといったことも含めてですね、「いじめ」について色んな観点から話し合っていきたいというふうに思います。それで、ここからはご自由に発言してください。発言がある方は会場の方は挙手をお願い致します。そしたらマイクを持って行きますので、マイクを受け取ってからお話ください。

・世話人の方から、事前にてつがくカフェの対話のルールについて説明があったのですが、その中で気になったことが。対等な人間関係という考えで話し合いしてくださいということと、あと上下関係ということを持ち込まないと。例えば、外では上司と部下の関係性、生徒と教師だったり。ということは、普段の社会生活にこういうことが、蔓延ということではないんですけど、かなり、浸透としてるのかなと。対等な人間関係で行きましょうと言うことだけど、中々そうなってない現実の社会があるということと。あと上下関係で、パワハラなんか一種のいじめだと思いますけど、特に上下関係で圧力をかけたりするわけで。こういうのが日本の社会ではかなり蔓延してるというか。蔓延とまで行かないけど、人々の間で意識されてるいうことなんです。それともう一つは、会場に入ってくる時「いじめる側がなんで逃げなきゃいけないの」と書いてあるのを見た訳だけど、ある意味でいじめられた側は逃げて当然だと。だから、いじめられた側がなんで逃げなきゃならないということでしょ?いじめられる側が逃げるっていうのは、ある意味当然だと思う。要するに暴力とかね、圧力がかかってくる訳だから一人でこういう対象になった場合、逃げないと異常に気づく。暴力でやられたら傷ついちゃったわけだから当然逃げていいんじゃないかと。だから、なんでいじめられた側が逃げなきゃいけないのか。だからそういう風にならないような社会を作っていかなきゃなんないということなんで、やっぱり人権意識とかね、そういうのをよく社会の中に、分かるような状況ということが必要なのかな?大変、世話人の話とポスターの文言を見てそんなことちらっと今思いました。

・ポスターに書いてあったセリフはあれはちょっと前にドラマ化されていた。原作は漫画なんですけども、そこに出てくるセリフなんですけど、あれは要するに学校でのいじめを念頭に置いて、いじめられた側が逃げなければならないのか、あるいはいじめられた側を隔離するみたいな、そういうことが行われるんだけど、それはおかしいんじゃないのという。むしろ、いじめる側を隔離すべきなんじゃないのかっていう。そういう文脈で言われているセリフですね。まあ、当然逃げていいし、逃げるべきだと思うんですけども、要するにその学校とか会社もそうかもしれませんけど、やっぱ逃げようがないっていう状況の中で、いじめられた側が逃げなきゃいけないっていうのはおかしいんじゃないのという。逃げるってことは、例えば会社で言うならば、要するにもう仕事がなくなるっていう収入がなくなるってことだし、学校で言うならば、要するに勉学が遅れるっていうことですから、そういうなんでそのいじめられてる被害者側がそういうふうな不利益を被らなきゃいけないのかっていう。そういうちょっと捻った文脈で語られたセリフのかなというふうに思います。

・いじめにあったような時は、状況を正しく理解して逃げるなり、その場の責任を持っている人に対応せまるなり、正しく反応するべきだと思ってたんですけれども、あのテレビを見てびっくりしたのがあの浅田美代子さんっていう女優さんがテレビを見ていて、「ああ、いじめなんてあるのね。大変ね、私の頃はあったのかしら?」みたいなこと言ってたら、お母さんが「あなたいじめられてたじゃないの?学校でひどいいじめが起こってるって大問題になったのよ」って言われて「え、そうなの?」とかいって。浅田美代子さんは周りの人が、「あー、機嫌悪いな」としか思っていなかったという話で。差別とかいじめとか、無視しないで対応すべきだと思うんですけれども、いじめられてる当人が気づかないとかスルーするという状況はどういう意味を持つんだろうと思っていたんですけれども。それで最近のことで、汚染水の海洋放出について、福島の人があまり反応していないのは、自分たちが差別を受けたり、いじめられてるのに、その自覚が無く気づいていないんじゃないのかなっていう状況なんじゃないのかなと、ちょっと結びつけて考えてしまったりしました。

・今の「いじめ」に気が付かなかったって話と繋がるかわかんないんですけど、「いじめ」とあとちょっと笑いにするために「いじり」という言葉もあって。その捉え方って難しいんですよね。本人にとっては「いじり」のつもりでやってるんだけど、受けてる方は「いじめ」に感じてしまう。けど、そこでちょっと笑いが起きちゃったりすると、全体としては笑いとしての答えになっちゃうのってあるなと思って。今、例えばテレビでそういった「いじり」の文化が減ってきてるようです。私もテレビ見なくなっちゃったんで、あれなんですけど。「いじり」で嫌がる人がいたんだなってのは、最近になって風潮で感じるようになりました。

・昔と今が大分違ってるっていうのは、子供が小学校の時にすごく感じたんですけども。昔は近所に駄菓子屋さんがいたり、お店屋さんがあって、学校と家だけでない別な逃げ道があったと。私の知り合いは山で日々過ごしたりとか、逃げ道があったのに今はそれが無くて。学校と家だけの人間関係。そして学校の教師がなんかいじめを見過ごしてしまう。それこそ「いじり」だって言われるけど、やられた方は「いじめ」な訳ですし、そういう世の中が私達が子供の頃とちょっと違うという。親のストレスが子どものはけ口になったり、父親のストレスが母親、母親の陰口が子供にっていうね。それで勝ち組、負け組でいうのがすごく出てきてる感じがすごくあって。お笑いなんかも素直に私はこう全然面白くない人がとっても多いんだけど、こういじって喜んでるみたいな風に感じています。

・先程ありました「いじめ」と「いじり」についてなんですけれども、個人的に高校生の時に、「いじめ」ほどでは「いじり」というか、先ほどおっしゃったように、当時で言うと肩パンと言われるものを受けていた時に、個人的にはそれは「いじめ」ではなく「いじり」なんだと思っていて。でも、今考えるとそれを「いじめ」だっていう風に、例えば先生なり親なりに言ってしまったら、それが本格的な「いじめ」、「いじり」から「いじめ」っていう進化というかというか退化というか、そういう経過を辿ってしまうんじゃないかなっていうふうに思ってしまいまして。だから、当時もその「いじり」なんだと思って。他のその「いじり」の当事者以外のクラスメイトもある意味それを「いじめ」だってこう周りが思ってしまったら、また外から「いじめ」という評価を受けて、自分達がこれいじめられてた、いじめていたんだっていう認識に変わってしまうこともあるのかなと思いまして。だから自分は当事者から「いじめ」という認識が生まれたり、他の第三者から「いじめ」という認識が生まれたり。そして結局、当時はその「いじめ」にしたくなかったっていうところから、何も言わずに過ごしてはいたんですけれども。そういう「いじり」と「いじめ」っていう関係性があるのかなと思います。

・今「いじめ」と「いじり」と言うことを対比的に話が出てきたんですけど。私は思うんだけど、「いじり」っていうのはまあ、何かをいじるっていうのはどういうことなのかなって私が考えたのね。思ったのは「弄る」というのは、人について使う言葉じゃないんじゃない?物について何かを「弄る」ということで。「弄る」というのは物扱いから来てると。要するに、「いじめる」は人間、「弄る」は物扱いなんだけど、それを人間に持ち込んでくるということは、人間は元々物じゃないんだと。それで、物扱いされるの非常に傷つくんですよね。要するにドメスティックバイオレンスなんかもそうなんですよ。例えば、男の人が女の人に暴力する。気に入らないとぶん殴る。要するに物扱いなんですよ。だから、「いじり」と「いじめ」に発展するっていうのは要するに物扱いが段々講じて、いじめになるというのはなるほど、そうだなというふうに思ったんです。

・今のは確かに「いじり」というのは「弄る」から来てんのかなというのは、ちょっとそこまで考えたことなかったんですけども、ただ僕達が子供の頃「いじり」という事は無かったと思うんですね。多分、僕達が子どもの頃は「ふざける」とか「からかう」という言葉があったと思うんです。でもやっぱり、「ふざける」と「からかう」というのは、最初は正に楽しくてというか、お互いにそんなに「いじめてる」「いじめられてる」ということは思ってはないけども、ふざけたりからかったりしてるんだけれども、ただ子供って限度を知らないから、どんどんそれがエスカレートしていってしまって、どっかから要するに別の次元に何か変わってしまうっていうことが僕なんかの頃にもあったような気がしていて。なんか物扱いっていうのかどうかちょっと分からないんですけど、要するに「ふざける」と「からかう」というのは別に「ふざける」「からかう」て言葉は物扱いしている訳ではなくて、友達同士でお互いふざけあったり、からかいあったりっていうのはあったんだろうと思うんだけど、なんかそれがどっかからこう特にある特定の人が常に常にからかわれるそのからかわれるが、もうちょっと段々エスカレートしていくっていう。そういうその正にこの線引きがうまくできないけど、エスカレートしてしまうっていうことはあったような気がしています。

・今、「いじり」という言葉が出たんですけれども、TVなんか見ているとメディアがね、よく「いじる」とかっていう言葉を使うので、そういうところからこの言葉が使われるようになってきたのか。それともどうなのかなと思って、いま考えさせられたんですけれども。やっぱり人間の尊厳っていうものがありますから、そういうことを考えたところ、時に凄く微妙なところがあるだろうと思うんですよね。例えば、「いじり」なのか「いじめ」なのかっていう微妙な他人が見たことと当事者は思ってたことが違うっていうことなんですけれども、その社会って結構勝ち組、負け組っていう話が先ほど出ましたけれども、そういう社会ですので分断して支配するような社会なんですよ。分断しないと支配的できない国家は。なので、こうした回なのであのうやっぱりいじめられてる子が「このいじりはちょっといじめじゃないの?」と思っても、やっぱりいじめられたと思いたくないっていうようなこともあるんじゃないかと。実際、「これいじめじゃないよ」という場合と「いや、そう思いたくない」という人も、もしかしたらいるかもしれないなあって。そういう微妙な大変な大切な心の動きの問題じゃないかなと今感じました。

・私が小学校六年生の時に田舎に母子寮があったんですね。それで、凄く貧しい人がいて、今思えばなんかいじめられてたのかなっていう感じもするんですが、その当時は気がつかなくて。例えば小学校二年くらいの時に「ちびくろさんぼ」っていうお話が国語で取り上げられて、あれはアフリカの人から見るとステレオ化された気分を大変害するものであって、今はもうないんですけども、人権についてとか、その歴史的背景とかを知らないと、自分がいじめてるっていうか、そういうことに気がつかないまますぎるのかなって思いました。だからいろんな人と対話したり、世界を見たり、本を読んだり、何が人権に違反してるのかってのを常に意識しなくちゃいけないのかなと思うんですけど。ちょっと長くなりましたが、うちの子供は小学校一年生の時に、別な子供が「〇〇君がいないから、僕の代わりに叩かれたりしたんだ」ということで、初めて自分の子供がいじめられてたってことに気が付いて、学校の先生がそのいじめる子を暴力振るう訳ですけども。大変なことが起こるんだっていう風に、学校の先生が言ってくれて、その後いじめが続いてかどうかはわからなかったんですけども、小学校五年生で転校して、転校先になじめなくて、空気のような扱いで他の学校の人に「〇〇君はキモイって言われてるよ」というのは、不登校になってから初めて他のお母さんに聞いて、「自分の子供がキモいって言われたの?」みたいな感じで。本当に先生からは「異質だ」と言われたんですね。だから「このままいくと中学校でいじめられるから、今から対策してください」と、その前の学校の学年の先生は勉強ができたので、家庭訪問も5分もかかんないで「〇〇君は問題ないです」と言うから、自分としては変だなと思いながら。まあ、学校の先生がなんかあれば言ってくれると学校を信じてたわけですけど。今の学校というのは昔と違うってのは初めて知りました。もう一言言うと、私が中学生の時にスクールカーストみたいにいじめっ子がいて、「あの子はかわいい。あの子はバカで、あの子はブスで」と全部ランク付けして、いじめる男の子がいたんです。それで、一緒にいじめられてる子と帰っていたので、「どうやったらあいつをやっつけられるんだろう」と毎日話して帰ってて。でもお母さんに言いつけるのは。ちょっと恥ずかしいし、学校の先生に言いつけるっていう気持ちは思いつかなくて、ふっと思いついて次の日、「〇〇を無視する女子の会」を作ったら、そいつが「いや、それはやめてくれ」ということで、いじめが止まって代わりに私がからかわれるようになったんですけども。私もいじめられているのか柱に縛られたりして、最初は遊んでるみたいな感じだったんですけど。そんなあの昔は可愛い「いじめ」みたいなのしかなかったです。ちょっと長くなりましたけど。

・「いじり」というのは、なんとなくあの関西文化なのかなって気がしていて。関西の人達って、とりあえずあの笑い合ってなんぼでがなかった。オチはどこ行ったっていうような世界のような気がするんだけれども、その「いじる」というのは、物扱いかどうかわからないけれども、でも、例えば物なんかでもどういう時に使うかっていうと、何かを引き出そうとするとき、要するになんか計算する時に、「そこのパラメーターいじろうか?」という言葉を使ったりすることを考えると、何かを引き出すことによって、何かを「いじる」ことによって目的に達するための何かを引き出すものが多分「いじる」という。もともとの言葉の使い方で、その関西的なノリから行くと、その笑ってなんぼのものだから、相手の何かをそこから笑いを引き出すために、何か突っ込みを入れる。ていうような話なのかなと思って、その関西のお笑いが関東の方にドッと進出した後に「いじり」文化っていうのはすごく広まったような感覚的に思ってるんです。日本全国で見た時にそういう笑ってなんぼみたいな、お互いにそれをやり合うような文化がないところに、でもその芸人の人達が「いじって」何かするようなものっていうのが、あたかも当たり前かのように入ってしまっているっていうのは、「いじりってのは別にやっても問題ないんじゃない?」みたいな雰囲気で「いじる」という言葉を使って、世話人がさっき言った言葉を使うなら「からかう」とか。多分「からかう」という言葉の方が、その言葉を使う時に自分がやってることが、いいことだとは思わないですね。「からかう」だと明らかに何かを相手の特徴を何かよく引き出すためにの時には「からかう」という言葉は使わないですね。必ず悪いところをあげつらう時に「からかう」という言葉を使っていて。なんだけれども、「いじる」という言葉が手に入ってしまったことによって、「いじる」だと必ずしもだから悪い方に行くわけではない。なんかその言葉が変に、やってることマスクしてしまう。本質をマスクしてしまって、それでその、なんかより「いじめ」がしやすくなってしまった環境にあるのかなって気はして見ています。

・「いじめ」と「いじり」の話になってるんですけど、個人的にはそういった呼び方に違和感を持ってて。「いじめ」という言葉は問題の矮小化というか、問題のレベルを下げているような印象を受けまして。大したことが無いように思わせるというか、そういうことを考えてしまってまして。というのは、学校での「いじめ」とかを子供達同士の悪ふざけだとか、そういうふうに捉えられてしまうっていうところが、僕は危険だなと考えています。学校での「いじめ」とかって、もっと警察とか弁護士とか、そういった人達をどんどん介入させるべきだなというふうには、個人的には思ってます。というのは、未成年者による暴行、器物損壊、侮辱、恐喝、あるいは殺人未遂といったそういったものの総称が、学校だと「いじめ」みたいになるというように感じてまして。これらの犯罪行為に教師だけだとカバーしきれないから、警察とか弁護士とかそういった人達が学校に介入していくべきじゃないかなというふうに私は考えております。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


てつがくカフェ@ふくしま Twitter

てつがくカフェ@ふくしま Facebook 


それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。