昨日、森一郎氏の『死を超えるもの―3.11以後の哲学の可能性―』を課題図書とした哲学書deてつがくカフェが開催されました。
今回は内容が内容だけに、二人の提題者によって参加者に著作内容の簡単な紹介と問題提起をしていただきました。
しかも、今回は著者である森さんご本人にも参加していただいての哲学カフェとなりました。
そのおかげか、24名もの参加者にお集まりいただけました。
遠くは東京や岩手からもご参加いただきました。
ありがたいことです。
冒頭、ファシリテーター小野原より、セミナーのような著者への質疑応答にならないようにとの注意喚起がありましたが、内容理解の点でどうしても著者にお答えいただく場面が多くなってしまい、さらには、哲学者名や専門用語もいつも以上に飛び交い、いつもの哲カフェのような参加者相互の対話は成立しにくい面があったようです。
とりわけ、本書ではハンナ・アレントとハイデガーの哲学が中心的に論じられているため、その名前が頻繁に登場しました。
とはいえ、参加者はいつも以上にディープな哲学の世界に誘われていったようです。
さて、会は島貫真さんと深瀬幸一さんのお二人による提題から始められました。
その内容については、すでにブログにアップしたレジュメ資料をご覧ください。
まずはお二人から、以下の問題が提起されました。
① 〈自然〉と〈世界〉とを分ける必然性(必要性)はあるのか?
② 近代文明の所産である「地下鉄」と「原発」とに境界はあるのか?―九鬼周造が大震災の後に「それでも日本人は地下鉄を掘りつづけるだろう」と書き記したことをめぐって―
③ モノには過去・現在・未来を結びつける色々な何かが含まれているのではないか?(それが故郷の土地へのこだわりと関連するのでは)
④ 〈宇宙〉と〈大地〉とのあいだの境界とは何か?
⑤ 「食事」に対する「掃除」の優越が主張されていないか?
M:「 アレント独自の世界概念は難しく、よくわからない部分も多いのはその通りです。でも、「世界」概念がわからないとして放っておくと 、アレントの主張は何もわからないことになります。それが3.11の経験を自然と世界とを区別することでよくわかったことがあります。
よく「自然は生きとし生けるものの基本だ、自 然を大事にしろ」と言われ続けていますが、それは「世界」が守られているから言えることなのです。
つまり、その自然というものに抗しながら自分たち人間が住めるようにしているもの、それが世界です。
自然の破壊力は圧倒的で、人間はそれに抗して何とか生きる環境=世界を確保して住んでいる。
また、アレントには食べて、排泄 してといった欲求に代表される「内なる自然」ともいうべき自然概念があります。
これら自然が露呈するようなところで人間は人間らしい生活は営めません。
震災後、住む家等が自然によって壊されたら、それに対抗して、新たに住む物を作っていかなければいけない。
人間 は自然の破壊から世界を守り続けなければならないのです。」
「 また、「宇宙」についてですが、宇宙の概念には英語でユニバース、普遍的なものという意味がありますが、そこには万物が平等で区別は何もない。
それに対してコスモスという意味での宇宙概念には上下などの差別的な概念も含んでいます。
近代はユニバ ースとしての「宇宙」概念で世界を見ます。
自然や世界の概念も飲み込むものが宇宙、あらゆるものを含む宇宙という概念がそうです。
そもそも大地との区別で何が問題になるのかといえば、大地の上に放射線を出す原発を持ってくることが問題です。
というのも、宇宙の中で放射線が飛んでいることは、なんも問題ないし、なんでもないことだけれども、地球に生きる人間は放射線に耐えられないし、生きていけない。
人間にはこの宇宙人としての側面と大地に生きる生き物としての二重の側面があります。
つまり、宇宙人としての人間が大地に放射線を持ち込んで、それによって大地の生き物としての人間が苦しむことになっている、そうしたギャップが露呈した問題が、この放射能、原発の問題なのです。」
A:「世界という概念とか、自然とか、宇宙という意味は、なんとなく分かります。
しかしながら、「世界はモノの総体である」という世界概念から倫理の問いは立ち上がるのでしょうか?」
M:「アレントには「モノの総体としての世界」の他に、人間たちが共同で作っている共同世界という意味での「世界」概念があります。
今回の著書はモノを全面的に出しているから、そのような違和感があるのではないでしょうか。」
A:「そのモノはそんなに大事なのでしょうか?モノは愛せないけれど、むしろコトが大事なのでは?」
M:「「コト」というのはどちらかと言えば、共同という意味での世界概念で扱われるものではないでしょうか。
むしろ、身近なモノも重要なのではないかという問題意識で書かれています。」
ファシリテーター:「人間が作り出したモノから3.11を取り上げている点に本書の面白さがある。」
B:「この議論はマルクス主義とどう違いのでしょうか?」
M:「マルクス主義とは違う。アーレントはマルクスから影響を引き継いでいるが、同時にマルクスを批判をしています。
一方、マルクス主義者からは、アレントは否定されています。」
C:「道具が永続性を持っているという議論は、ヘーゲルを 受けているものでしょう。
また、当然そこからマルクスともつながっている。けれど、貨幣の問題も取り入れないとこの問題はよく見えないのではないでしょうか。」
M :「P133に 、「資本主義の拡大再生産のテンポ は、自然の永遠回帰に近づく」とされていますが、機械に関して我々は生物性を感じる時もあります。
ただし、道具と機械は区別する必要があるでしょう。
道具は手の延長であり、人間なしで勝手に動き、人間と独立に動くのが機械です。 オートマティズム、これと類比的に自然は循環します。
経済活動でも景気などを見てもわかるように、勝手にくるくるくるくる動く。
これを自然とみることができるでしょう。
この自然概念は奇妙だが、でも、社会全体の生命プロセスとする点で面白い。」
D:「拡大再生産で人間は自滅に向かっています。機械などのスイッチを切れば止まるのに、なぜかそのスイッチを切ることができない。それがこの原発問題と重なるように思います。」
M:「拡大再生産は生殖とも類比的に語られます。
資本の増大と、生殖、繁殖の自然現象とが、 同じにとらえられている。
スマホは、世界中に増殖していますが、それは止められますか?止められないでしょう。
最初は人間が作ったものだったが、もう無理でしょう。
生き物の性(さが) にはそういうものに入っているということではないでしょうか。」
C:「自然を永劫回帰ととらえているが、ダーウィンの進化論と混ざっているのでは。
繁殖なのか?進化なのか?
自然を永劫回帰というふうに 決めてしまっていいのでしょうか?」
M:「永遠回帰という 理解は昔からの自然観です。 近代以前には進化論はない。素朴な自然観です。
進化論が出たから永遠回帰の自然観はなくなるのでしょうか。そうではないでしょう。
近代に特有なカテゴリーで物事を考えたがるが 、それだけでは足りないので はないでしょうか?!」
D:「永遠回帰と進化論はどちらもダメなところがある。
原発が象徴だと思う。
こうなってまでも、永遠回帰のそっちのほうになってしまうのは、なぜ??」
E:「世界の手入れの心得を言っているんでしょうね。
この本はその先を指示してるわけではなく、その見方を手に入れただけで世界の見方が変わった。
それだけでいいのではないでしょうか。」
M:「掃除と炊事の優劣の問題が提起されましたが、食事が劣位にあるというのはドイツ的にはたぶんそうでしょう。
ドイツは、飯がまずく、町は、すごくきれいなことが印象的でした。
その反面、料理にあまり火を使わず、食へのこだわりが日本人ほどない。
それでも家事労働は2種類に分かれるのではないでしょうか。
食欲を満たす生産と消費そのものという面と、もう一つ、掃除などは世界をきれいにして世界のメンテナンスに役割を果たす仕事という面です。
その点で、一概に労働/仕事の区分ができない面があります。
一方、食事を作ると感謝されるのに、掃除にはやっても誰も褒めてくれないものです。
なぜ、掃除を重んじたのかというと 、震災瓦礫のそうじと、除染をみると、掃除をきちんと位置付ける必要があったというのが本書の意図です。」
C:「パンは食べたらなくなるし作品は 残るけど、音楽っていうものはどうなのでしょう?
音楽はなくなってしまうけど、ものだと書いてある。
持続はしない。 聴いたら物質的には消えるものでしょう。
モノや世界ってのを持続性って定義していいのか??」
M:「それはアクションのほうに入るでしょうね。活動や行為の瞬間の表れです。
人間の語りや行いは、すぐ消えてします。
その1回きりではあるが、物語になり、歴史になり、重要です。
音楽は、楽譜があって、その作られたものを解釈して演奏していくもの。 それは、ぎりぎりのモノ性ではあるのでしょうが。」
C:「料理のレシピも同じようなものかな?」
S:「自分の住みやすい環境世界を作るという点で、生物の巣づくりも仕事に入るのではないでしょうか。
すると、自然と世界を分けるのではなく、巣づくりは自然の延長で考えることはできないのでしょうか。
自然から世界へという連続的に考えられないのでしょうか?」
M:「人間と動物を連続的にみる自然主義 は普通に見られる考え方だけれど、そういう発想はアレントにはない。
人間も自然的なものから発展してきてるが、普通の動物と人間は違ってるというでしょう。」
「 ゴミ問題は、自然の外に出して 何とかしてきたが、それが、だんだんと対処できなくなってきています。
原発は今回の広島の土砂災害ほど簡単ではなく、散らしたからと言って無くならない超ゴミ問題として難問です。
新しい解決法は哲学をやっても出てこないが、新たな問題であっても考えていかなければならない。
後代から、あいつらこんなゴミを作って、と 言われ続ける点で超ゴミ問題です。」
ファシリテーター:「近代の生産性の増加から、まさに人間的なものからゴミ問題が出てきた。
生き物が出している排泄物などは、ゴミではなく肥料とかになるし。」
E :「ごみ問題とは分けて環境問題があります。
植樹、家を建てる、料理は、同じ分類で話されていたのかな。
幸福・幸せとかについては書かれていないと思いましたが、でも掃除などをして、世界を大切にしていくことは幸せになるものでしょう。」
F:「ごみ問題への向かい方の姿勢を考えさせられた。宇宙人として上から見ることはできるけど、大地から見ていく視点がだいじですかね。」
G:「ごみ問題はずっとあったはず。3.11以降、何が違うかと言いますと、おそらく当事者になった点が異なります。
でも、自然と世界の区分など、3.11以前よりあったのではなかったか。
それがなぜ「3.11以後の哲学の可能性」なのか?
なにかしたいのだが、世界を愛しましょうでは世界の見方が変わったと言えるのでしょうか?」
B:「ドイツ哲学は、人権に関する感覚が弱いのではないでしょうか?同じアレントの議論でも、3.11以後は『イェルサレムのアイヒマン』の方が響くものがあります。」
A・C:「善悪っていうのは世界の中にあるはずです。
自然とは別物だというのはその通りだと思いますが、世の中のシステムが個人の意思とは無関係に動いて行ってしまうものです。
この著書の考えを原発に当てはめるのは必要だが、原発システムをどうするのかを問う倫理の視点はどこに入り込めるのでしょうか?」
カフェの終盤になって参加者の本当に問いたい問題が提起されたところで、残念ながらタイムアップとなってしましました。
いつもながら、これは引き続き考え続けていく課題として積み残されましたが、今回はとりわけ色々な方のご尽力により可能になった企画となりましたことに感謝申し上げます。
まず本書と本書の著者である森さんにはもちろんですが、その出会いの場を与えて下さった加賀谷さんにも心より感謝申し上げます。
また、提題者にお願いしました島貫さんと深瀬さんには、その並々ならぬ意欲に対し、不躾にも「10分間」という不十分な時間ということでお願いしてしまいました。
失礼をお詫びするととおに、きっちりとその時間内でご報告いただけましたこと、心より感謝申し上げます。
また、今回は県外より多数の方々に来福いただけましたことも、あらためて御礼申し上げます。
ワタクシは本日、人間ドックであったにもかかわらず、あまりの痛快さに夜中の2:00まで懇親会で盛り上がってしまいました。
これもてつがくカフェ@ふくしまをご愛顧下さる皆様のおかげです。
ぜひ、またお会いできることを楽しみにしております。
次回の哲カフェは9月20日(土)を予定しております。
多くの皆様のご来場をお待ち申し上げます。
勉強会は2時間しかなく、その後の二次会(飲み会)に出席できなかったせいもあり、内容についてますます気になってきた。著者の言う「もの」についてである。著者は、この現代に「もの」について語るのは「反時代的」と書いている。「もの」とは、人間と無関係に存在するものではなく、人間にとって意味あるとされる「もの」のことである。著者によれば、そういう「もの」によって構成されるのが「世界」である。したがって「世界」は「自然」とは区別される。しかし、そのような「もの」や「世界」概念は、「反時代的」だろうか?
むしろ、3.11以前に流行した共同体論、それに連なる日本文化論など、極めて「時代的」ではないだろうか。首相をはじめとしたある種の政治家や評論家は、「日本」を「自然」の一区分として考えているわけではなく、分節化(意味化)された「世界」として語っているではないか。そのことに対して批判的な視座を提供するのが「物象化批判」である。今回のテクストには廣松渉などの「物象化批判」を批判する部分がある。
確かに、3.11は、僕にとっても様々なことを根本的に考えるきっかけを与えた。「自然と人間の関係」や「共同体」についてもそうで、その意味で問題意識は著者と共通する。レポートの冒頭でも、廃校になったある小学校を訪れた話をして、それはただのものではなく人々の想いが蓄積され過去の人々と僕たちを結びつけ、さらには未来の人々をも結びつける「もの」なのではないか、それは「ふるさと」とよばれる土地や景観も同じだと述べた。
でも、その考えは非常に危ういものをはらんでいるように感ずる。宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に「カオナシ」と呼ばれる者が登場する。カオナシは人々の欲望を呼び寄せ、それによって膨張してゆく。「ふるさと」や「国家」なども同じではないか。津波や原発事故によって被災し「ふるさと」を奪われた人々の切実な想いとともに、ある種の政治家の欲望をも同じように呼び寄せ膨張するカオナシではないか。
そんなことが喉にささったトゲのように気になって仕方がない。
私は、前の勤務先の古い小校舎が、キャンパスを席巻する資本の論理
(生産と消費の拡大再生産を邪魔するがゆえに、建てることと住むことが蹂躙されるということ)
によって破壊された経験から、「物への配慮」ということに想い到りました。
ですので、仙人さんが提題の最初におっしゃったことは、痛いほど分かります。
この経験から掴みとった問いは、私としてはやはり「反時代的」だと考えます。
物が守りを失い、世界が荒れ野となる状況が、現代を覆い知尽くしていると感じています。
これに対して、「世界への愛」は「愛国心」を鼓吹する復古主義と、どう違うのか、
という問いが向けられるということにも、敏感であらざるをえません。
私は、旧来の右/左とか保守/革新とか、そういったレッテルはもう終わっていると思う者です。
また、物象化批判はラディカルで実体主義は反動といった想定も、もう止めたほうがいいと思っています。
もっと根本的なところで、「近代とは何か?」という巨大な問題群が浮上してきています。
その系には、「近代科学とは何か?」「現代技術とは何か?」
「歴史的発展とは何か?」「新しさとは何か?」といった大問題が属しています。
近代批判は、近代のなかにどっぷり浸かったわれわれにとって、自己批判以上の重い課題です。
その肺腑をえぐるような問いを、今日われわれは、他人事ではなく、
自分自身の問題として突きつけられていると思うのです。
その近代の行き着いた先が、原発の暴走と大地の荒廃だったのですから。
先日のてつがくカフェでは、「もの」よりむしろ「こと」が大事、
というコメントがありました。それにも一理ありますし、「事を為す」という人間のあり方
(アクション)について、しぶとく考え続ける必要があることは承知しています。
しかしだからといって、「物を作る」という営みへの問いが免除されるわけではありません。
「事を為すこと」も「物を作ること」も、「必死に働くこと」と同じく、
人間にとって無くてはならない基本的あり方ですし、哲学的省察を傾ける価値があります。
「政治」や「国家」は哲学的に非常に重要なテーマであると、私は心底思っていますし、
アーレントに触発された私自身の政治哲学的関心も、じつはそこにあります。
というのも、私の究極の哲学的野心は、「革命への寄与」にあるからです。
ととともに、そういった問いを深めるためにこそ、「物」へのこだわりが重要だと考えます。
現代において「物への問い」は蔑ろにされているとしか思えないからです。
とくに、震災や原発で危機に瀕している「物」や「町」への配慮は、
「物象化」とか「物神崇拝」とかいった決まり文句で一蹴できない重みをもって、
われわれに迫っている、と私は感じています。
中央の政治家たちによって見捨てられた国土は、われわれ人間に反時代的問いを促しているのです。
その場合の(ニーチェの言う)「反時代的」とは、同時代の問題に敏感かつ根本的に応答することです。
そのためには、党派抗争の一時的浮沈からいったん距離をとる必要があります。
私は廣松渉にわずかながら習った者で、彼の偉大さも少しは知っているつもりです。
だからこそ、廣松哲学が批判の的にした「物象化(Verdinglichung)」を、
逆の視点から論じているアーレントを面白く感じ、
両者の考え方を正面からぶつけてみたいと思うのです。
それこそが、廣松先生に対する恩返しになると確信しています。
拙著が、以上のような問題意識をもって、あえて「物」について語っていることを、
ご理解いただければ幸いです。長々と書いて失礼しました。
てつがくカフェを基盤として、自由な議論を今後も重ねていければと願っています。
何とぞよろしくお願い申し上げます。
資本の原理によって、大地が、そして「世界」、私たちにとってかけがえのない「もの」たちが蹂躙されていること、まさしく言われる通りだと思います。しかも「もの」たちは、「私たち」と言うより「私」たちそれぞれの生の中での意味ある「もの」たちで、その意味で、半宇宙人さんがご自分の身の回りの「もの」から出発をすることを「反時代的」だと言われることについて深く共感いたします。
私は教員のままで大学院で教育学を学びました。折しも「生きる力」や「新しい学力観」が現場を席巻している時でした。これは戦後学力観に酷似していますが考え方はまるで違います。現在、「日本」や「絆」や「ふるさと」といった言葉が大文字でよく使われますが、私たちそれぞれの生の中の「もの」たちはあくまで小文字の「もの」たちです。私が危惧するのは私たちのそれぞれの小文字の「もの」たちが、大文字の「絆」や「日本」
に回収されようとしていることです。
最近、気になってしかたがないのが百田という小説家のことです。彼は小説を読む限りは相当に知的な人物だと思います。その人物があのような、どこか狂ってるしかいいようのない発言をしたり、知的に欠落があるのではないかと疑われる権力者の擁護をする。しかし、彼は狂っているわけではない。「絆」や「日本」が全てをのみ込む不気味な許容性を持っている。こんなことを言うと森先生に叱られると思いますが(素人の無知に免じてください)ハイデガーにおける「大地」もまたそうなのではないでしょうか。
あの勉強会で大きな宿題をいただいた思いで、その宿題を、私なりに、教員として私人として、地道に考え続けて行こうと思っています。
てつがくカフェでの議論以来、多くを学ばせていただき、感謝です。
今回はハイデガーはあまり取り上げませんでしたが、
「すべてを呑み込む不気味なもの」は、ハイデガーで言うと、
「ゲ・シュテル」(「集立」「巨大収奪機構」「総かり立て体制」などと訳されます)
になると思います。「大地」は、後期ハイデガーでは、
「天空」「神的なものたち」「死すべき者たち」と並んで、「世界」
(「四方界」と呼ばれます)を形づくるもの、とされます。
その世界が、ゲシュテルの猛威の前に荒廃し、危機に瀕している、
というのが、ハイデガーの見立てです。
私は、この見立ては、それが十分であるかは分かりませんが、
アーレントの「世界疎外」という問題提起とともに、
今日的状況を批判的に再考するうえでカギになると思っています。
現代日本、とくに3・11以後の政治意識が、みるみる収縮の方向に向かい、
閉塞感が深まってきていることは、私も憂慮していますし、
その面で市民として為すべき務めを果たすことが重要だと思います。
それと並んで、この危機の根本に何がひそんでいるのか、
マルクスやニーチェ、ハイデガーやアーレントといった先人の思索に学びながら、
じっくり考え、答えがなかなか見つからなくてもしつこく考え続ける
ということに、賭けたいと思うこの頃です。
今度はぜひ温泉にでも浸かりながら、のんびり議論したいですね。
温泉研究を極めておられる加賀谷さんが、フランス留学されるのは痛手ですが(笑)、
残ったわれわれで、また楽しくやりたいものです。
「大地」が、ハイデガーにとって深遠なる(僕には深遠すぎて理解できないところがあるのですが)思想的概念である(『放下』においても、ハイデガーは「大地」に特別な意味を与えてそこに回帰すべきことを説いていたように思いますが、記憶違いですか?)と同時に、ナチスが援用した例の「血と土」(Blut und Boden)の思想の中にもあります。ナチスは、農村共同体を、ドイツ民衆の血の根源と規定したのではなかったでしょうか。僕はハイデガーの思想とナチスのプロパガンダとを同日に論じようとも思わないし、ましてこのことでハイデガーを批判する気持ちもありません。しかし、「大地」という言葉あるいは概念にあるそれらを飲み込んでしまうような許容性について、時に僕は「不気味」と感じてしまいます。生活する我々にとっても、自分たちを養い、そして歴史的に意味ある存在として根拠づける母体(根っこ!)が「大地」でもあります。
もちろん、血と土を尊重すると言いながらナチスがやったことは祖国を根こそぎにすることでしかなかったように、現代日本の政治が「日本を取り戻す」などと言いながらTPPに参加を表明したり、特定秘密保護法を成立させたり、集団的自衛権の閣議決定をしたり、あるいは事故によって「大地」を取り返しがつかない形で汚してしまった原発を再稼働をさせることで、人々や「大地」を「取り立て」て、根こそぎにしてしまおうとしているようにしか思えないのです。
半宇宙人さん、東北は温泉の宝庫です!是非そういう機会を作りますので、そのたびはよろしくお願いします。
乱入させていただきます。
もっと早くにインターセプトしたいと思いつつ、ずるずるきてしまいました。
まず、お二人のやり取りの表面に、ハイデガーやアーレントが出しゃばりすぎている気がしました。
ハイデガーやアーレントがどう考えたか、という話になれば、半宇宙人さんに分があるわけですが、半宇宙人さんも、このカフェでそうした議論をしたいと思っているわけではないと私は思います。むしろ、職業的研究者のそうした問いつめに、辟易しているのではないでしょうか。
話をもう一度、巻き戻させてください。
仙人さんのカフェでの冒頭の、廃校の風景、私は共感を抱きながら聴きました。
廃校の風景、和辻の「風土」の冒頭、古代ギリシアのポリスについての和辻の見立てに繋がります。
森さんも、まちについて、ニーチェを引き合いに、ご高著で論究していました。
私の差し当たりの問題意識は、こんなにあっさり学校を廃校にしていいのか、廃校校舎はノスタルジーか、です。
というのも、学校の廃校の問題は、まち(地元)の存亡に関わります。
学校がないまちにはひとは住みません。震災後こんなにあっさり学校を統廃合して、まちを消滅させていもいいのか、です。
当初の私の答えは、廃校反対でした。
しかし、宮城での震災の影響で早まった学校の統廃合の事情を知るにつけ、反対とだけは言えなくなりました。
廃校やむなし!
これを肯定した上で、これでいいのか?よくなくてもこうなってしまう!というあがきです。学校の統廃合は、震災だけでなく、日本全土の問題です。
福島の学校の先生方は、事実上の統廃合の問題をどうお考えですか?
私はこの問題を、「ふるさと」ないし「故郷」の問題として考えています。
「故郷」と「学校」です。付随して「医療」もありです。
仙人さんの前のメールに、「ふるさと」と「国家」とが同列に論じられているような文面がありましたが、それは本当でしょうか。両者の差異をこそ、きちんと白日に曝すべきではないでしょうか。
ふるさとと国家とは、同列ですか。
「ふるさと」とは、何でしょう。「国家」とは、なんでしょう。
両者は、相当に違う意味次元にあるのではないでしょうか。
関連して、半宇宙人さんのご著書には「国土荒廃」という文言があります。
「国」ないし「国家」というレベルと、「もの(世界)への愛」のレベルを、どう区分けするのかも、お尋ねしたいと思います。
故郷喪失、大地喪失、日本語にしてみるとおおごとですか、故郷も大地も、大文字でなく小文字で考えてみる可能性はないでしょうか。それと、「国家」との差異も。
私が共同代表の一人である「エチカ福島」という活動について、あの時のレポートの後ろに添付した資料によって紹介させていただきましたが、特に第二回セミナーの私のレジュメに、福島県に生きるものとして「故郷」が喪われることをどう考えるかについてふれています。
実は私は教員稼業を奥会津の川口高校ではじめました。只見川沿いにある小さな学校で、そこに通うのは地元金山町と昭和村の子どもたちです。当時からこの地域は過疎化が進み、両町村とも高齢化率は30%を超えていました(現在は50%を超えています!)。教えはじめて間もなく、教員たちの話題の中で、今年ある集落が無くなったという話を聞きました。もちろん頭の中でその事実は理解できますが、集落がなくなるという事態がよく実感できなかった。私は興味があって実際に三条という集落を見に行きました。人がいなくなって立派な家だけが立っている風景でした。かつて畑だったところには茅が勢いよく繁っていました。それは30年前のことです。2011年の震災原発事故の後の夏、只見川が氾濫し、ぢゅんさんのゆかりのある本名という集落近くの線路もろともに土地の一部が流されました。それ以来川口から只見までは不通のままで復旧の目処は立っていません。ご指摘の医療もまた、30年前には高校の近くの診療所に年老いた医師がお一人いらっしゃったが、いまはおられません。このように、高齢化が進んだ地域で最も必要とされる医療や公共交通が奪われる。これは震災原発事故にはじまったことではありません。30年前に「ふるさと創成」などという政策がありましたが、多くの町村ではその金を馬鹿げたリゾート施設を作ることに費やしました。もちろん明らかにそう唆されていわけでしたが、結果として過疎化をいっそう推し進めることでしかなかった。
私は福島県に原発があることと、この奥会津の問題は無関係ではないと思います。エチカ福島の中で、バカみたいに「原発以前と以降をつなぐ視点」などと繰り返しましたが、いまでもその視点は重要だと思います。
実は、次のエチカ福島はその金山町でやろうとして現在計画中です。いい温泉もあります!
宣伝も含めてコメントさせていただきました。
たいへん刺激と活力を得ました。
金山町でのエチカ福島、ぜひ参加させてください!私も温泉ファンです。
廃校廃村問題は、おそらく40年前からの全国の問題であり、原発事故の以前と以後、内と外を「つなぐ」問題の一つと思われます。ただ、津波と原発事故で、
地域によっては加速した。宮城あたりでは、「統廃合は、前から決まっていたことで、それが数年早まっただけ」といったフレーズを、よく耳にします。この「だけ」がくせ者で、深淵を覆い隠している気がしてなりません。数年の「加速」。なにがあっても、ほとんど決して減速することはありません。いわんや後退や方向転換をや。
ナイルの一滴のような後退事例を、少し前に耳にしました。熊本の山奥の村に、この春小学生になる1人の子どもが現れ、その1人のために、廃校だった分校を再開したという、まったく反経済的な事件です。これについては、またの機会にお話しできればと思います。
廃校廃村問題で常に脳裏をよぎる句があります。たしか西行の、 「山深くさこそ心はかよふともすまではあはれは知らんものかは」 山深くの風景にいくら心を通わせようと、そこに住まなければその地の「あは
れ」は知ろうはずもない、と私は理解します。
山や海は、観光地として私たちの心を癒し感動を与えてくれます。
しかし、そこに住まうことによってはじめて感知できる「あはれ」というのがある。
私は、この「あはれ」を知っているとは言いませんが、わずかながら予感できます。
というのも、私は3歳から10歳まで、高知県の山奥の谷間に住んだことがあるからです。湊川という地です。
3歳まで大阪のど真ん中で過ごした私は、この湊川では「都会っ子」として、まわりの野人たちからよくいじめられました。嫌な思い出ばかりで、田舎を出たいとばかり思っていました。村人たちも、おたがい悪口や意地悪ばかりで、さほど仲がいいようにも見えませんでした。私が4年生まで通った小学校は、全校生徒13名で、1980年ごろには廃校になりました。
ただ、ぎすぎすした小さな湊川には、祭りのときとか、なにかのときに、不思議な親密さが溢れ、自然が微笑みかけてきました。祖母は、湊川に住む一族も含め村人たちと、切っても切れない縁にあったと感じます。
一族と村共同体のこの地縁関係は、一種の「血縁」であり、明治政府は、この縁を見事に活かしそれを基礎にして「国家」を建設しました。こうした「血」や「いえ」や「むら」や「国家」が、戦後完膚なきまでに批判・忌諱され、「根こそぎ」にされてきました。
森さん(このネットワークでは「先生」は使わないよう努力します)のいう半宇宙人は、根こぎとなった人間が隠しもつ顔を、発見的かつ大胆に暴いています。
話を戻せば、山深くに住むことによってはじめて感知する「あはれ」を、「血」や「国家」に回収せずに考える余地はないのか、ということです。そして、この脱イデオロギー化した無力な余地に、なにか救いのようなものが育たないか、です。
私たちは、この「あはれ」をほとんど失ってしまいました。
僻地の学校やまちを失う前に、「あはれ」を失った。だからこそ、廃校や廃村を問題化することは、ロマンチックなノスタルジーにしか見えない。
この「あはれ」は、日本の自然(風土)と人間との接触面から湧出する、その土地に住まう等身大の人々の小さな「世界」の根本気分だったとは言えないでし
ょうか。
ものの「あはれ」は、ご存知の通り、日本文学の沃土(Erde)です。
もちろん全てではありませんが、多くの優れた芸術が、「あはれ」に根をはり、「あはれ」を表現しました。
翻って、ハイデガーは、『放下』にて、シュワーベンの故郷の土壌(Erde)から芸術作品が生い育ったと語り、ヨハン・ペーター・ヘーベルの「私たちは植物である…根を張って土地(Erde)から生い立たなければならない…」の一節を朗誦しています。
管見ながら、芸術を愛するハイデガー研究者は、芸術が土地から生まれ育つというハイデガーの洞察を、ほとんど真面目に受け止めていません。(森さんから
どつかれそうですが…)
ほとんどの研究者は、都会風のハイカラな芸術作品に注目します。
そもそも、現在、ハイデガーが認めたような「芸術」はあるのでしょうか。
ゴッホの農民の靴の絵、ヘルダーリン、ギリシア神殿、アンティゴネー…。アテネなどのポリスのサイズは、決して100万人都市ではない(ですよね?)。
土の「あはれ」を失いかけている私たちは、その作品が、ローカルな風土に根をもつ「芸術」であるか否かを、嗅ぎ分ける嗅覚を急速に失いつつあるのではい
ないか。むらとまちを失い、学校を失いながら。
それらを失いながら得ているものは、金(カネ)です。
カネとは、貨幣とは……
てつカフェのルールは、「言いたいことを簡潔に言う」でしたね。
ルール違反になってしまいました。深謝です。
熊本にはそんな「反時代的」な出来事があったのですか!
今日は、奥会津の金山町役場に勤める教え子に連絡をとり、エチカ特別篇奥会津場所で問題提起してくれるよう依頼したところです。彼は地元の川口高校を卒業し、福島大に進み卒業後、町の職員として20年働いています。今日は、あの頃から変わったか?と聞く私に対して、自分はずっとここにいるから変化は気づきにくいが、方々の集落から人が消えて行くことを当たり前のこととして受け入れざるを得ない現実がここに確かにあると答え、そのことについてこれから自分の中にある思いを整理して話したいと言っていました。
これから先、この奥会津に起こることは日本のあらゆる地方で起こることです。私は田舎に縁があり、妻は木曽の産です。木曽もまた奥会津と同じ問題をかかえています。
「あはれ」の代わりに手に入れたものはカネ、そうですね。「ふるさと創生」予算の使い途の多くは、都会の人々が落とすカネ目当てのリゾート建設でした!自分たちを、その命をその心を培ったきた大地を切り売りしようというわけです。
森有正は、カネはものではないと喝破しました。カネはけっして彼の言う「経験」を構成しないからです。
私は田舎人ですが、田舎を嫌ってきました。しかし大震災の後、ノスタルジーやロマンチシズムではなく、特別な伝承などがなくたって、この土と水と空気を共有する人々との関係性は大事にしなければならないとはじめて実感しました。
エチカ特別篇は10月のいずれかの土曜日実施にむけてただいま調整中です。
さてさて、そんな中ワタクシも皆さんに「かだりたい」(宮古弁で「参加したい」)と思い、エティエンヌ・タッサンの「フクシマは今」を読んでるのですが、私の現時点での関心はこれに近いと思います。アーレントのもとダンナのギュスター・アンダースを主に参考にし福島の問題を考えているようです。いくつかポイントがあるのですが、私は「世界からの疎外」に対応するものとして、30年代にアンダースとアーレントが「無世界性」と「異邦性」を対応させていた、ということにアクセントを置きたいと思います。私は後者の「異邦性」に興味があるのですが、これをいうとハイデガーの大地や天空といった概念への批判と分かりやすい枠組みで捉えられがちですが、私はそこに何らかの共犯性、親和性があり、むしろ大地に根付く存在の構造そのものにすでに大地への「異邦性」が内在し、住み着いている気がします(→根拠なしですが)。実際、レウ゛ィナスなんかは「大地に根付く存在」や「自己に自閉した外部なきエコノミー(内面性)」を存在や世界への繋縛として糾弾していたように考えられますが、実は『全体性と無限』なんかではむしろ存在に繋縛され、自己充足しているこの自我なしでは「全体性」にかすめとられてしまう危険性があり、それを警告しています。全体性から徹底的に分離された実存の獲得が絶対に必要だとしています。
では、どこから大地からの「異邦性」が出てくるのか。慣れ親しんだものや風景がなぜ「よそよそしさ」の呈で表れてくるのか。それは今までは、他者の死ですとかとか他者の死の前での自己の存在からくる「やましさ」みたいなことなどにばかりに焦点がいっていたのですが、そればかりではなく、最近の研究では「エロス」(プラトンやフロイト的な融合のエロスではなく)の問題が重要だとされているようです(福島の皆さまの得意分野です!)
といったところで余裕があったら後程!!(たぶん、ないと思います)。
では今回のご縁がきっかけとなって、東北のアゴラが今後一層盛り上がってくれることを願ってやみません。