昨日、森一郎氏の『死を超えるもの―3.11以後の哲学の可能性―』を課題図書とした哲学書deてつがくカフェが開催されました。
今回は内容が内容だけに、二人の提題者によって参加者に著作内容の簡単な紹介と問題提起をしていただきました。
しかも、今回は著者である森さんご本人にも参加していただいての哲学カフェとなりました。
そのおかげか、24名もの参加者にお集まりいただけました。
遠くは東京や岩手からもご参加いただきました。
ありがたいことです。
冒頭、ファシリテーター小野原より、セミナーのような著者への質疑応答にならないようにとの注意喚起がありましたが、内容理解の点でどうしても著者にお答えいただく場面が多くなってしまい、さらには、哲学者名や専門用語もいつも以上に飛び交い、いつもの哲カフェのような参加者相互の対話は成立しにくい面があったようです。
とりわけ、本書ではハンナ・アレントとハイデガーの哲学が中心的に論じられているため、その名前が頻繁に登場しました。
とはいえ、参加者はいつも以上にディープな哲学の世界に誘われていったようです。
さて、会は島貫真さんと深瀬幸一さんのお二人による提題から始められました。
その内容については、すでにブログにアップしたレジュメ資料をご覧ください。
まずはお二人から、以下の問題が提起されました。
① 〈自然〉と〈世界〉とを分ける必然性(必要性)はあるのか?
② 近代文明の所産である「地下鉄」と「原発」とに境界はあるのか?―九鬼周造が大震災の後に「それでも日本人は地下鉄を掘りつづけるだろう」と書き記したことをめぐって―
③ モノには過去・現在・未来を結びつける色々な何かが含まれているのではないか?(それが故郷の土地へのこだわりと関連するのでは)
④ 〈宇宙〉と〈大地〉とのあいだの境界とは何か?
⑤ 「食事」に対する「掃除」の優越が主張されていないか?
M:「 アレント独自の世界概念は難しく、よくわからない部分も多いのはその通りです。でも、「世界」概念がわからないとして放っておくと 、アレントの主張は何もわからないことになります。それが3.11の経験を自然と世界とを区別することでよくわかったことがあります。
よく「自然は生きとし生けるものの基本だ、自 然を大事にしろ」と言われ続けていますが、それは「世界」が守られているから言えることなのです。
つまり、その自然というものに抗しながら自分たち人間が住めるようにしているもの、それが世界です。
自然の破壊力は圧倒的で、人間はそれに抗して何とか生きる環境=世界を確保して住んでいる。
また、アレントには食べて、排泄 してといった欲求に代表される「内なる自然」ともいうべき自然概念があります。
これら自然が露呈するようなところで人間は人間らしい生活は営めません。
震災後、住む家等が自然によって壊されたら、それに対抗して、新たに住む物を作っていかなければいけない。
人間 は自然の破壊から世界を守り続けなければならないのです。」
「 また、「宇宙」についてですが、宇宙の概念には英語でユニバース、普遍的なものという意味がありますが、そこには万物が平等で区別は何もない。
それに対してコスモスという意味での宇宙概念には上下などの差別的な概念も含んでいます。
近代はユニバ ースとしての「宇宙」概念で世界を見ます。
自然や世界の概念も飲み込むものが宇宙、あらゆるものを含む宇宙という概念がそうです。
そもそも大地との区別で何が問題になるのかといえば、大地の上に放射線を出す原発を持ってくることが問題です。
というのも、宇宙の中で放射線が飛んでいることは、なんも問題ないし、なんでもないことだけれども、地球に生きる人間は放射線に耐えられないし、生きていけない。
人間にはこの宇宙人としての側面と大地に生きる生き物としての二重の側面があります。
つまり、宇宙人としての人間が大地に放射線を持ち込んで、それによって大地の生き物としての人間が苦しむことになっている、そうしたギャップが露呈した問題が、この放射能、原発の問題なのです。」
A:「世界という概念とか、自然とか、宇宙という意味は、なんとなく分かります。
しかしながら、「世界はモノの総体である」という世界概念から倫理の問いは立ち上がるのでしょうか?」
M:「アレントには「モノの総体としての世界」の他に、人間たちが共同で作っている共同世界という意味での「世界」概念があります。
今回の著書はモノを全面的に出しているから、そのような違和感があるのではないでしょうか。」
A:「そのモノはそんなに大事なのでしょうか?モノは愛せないけれど、むしろコトが大事なのでは?」
M:「「コト」というのはどちらかと言えば、共同という意味での世界概念で扱われるものではないでしょうか。
むしろ、身近なモノも重要なのではないかという問題意識で書かれています。」
ファシリテーター:「人間が作り出したモノから3.11を取り上げている点に本書の面白さがある。」
B:「この議論はマルクス主義とどう違いのでしょうか?」
M:「マルクス主義とは違う。アーレントはマルクスから影響を引き継いでいるが、同時にマルクスを批判をしています。
一方、マルクス主義者からは、アレントは否定されています。」
C:「道具が永続性を持っているという議論は、ヘーゲルを 受けているものでしょう。
また、当然そこからマルクスともつながっている。けれど、貨幣の問題も取り入れないとこの問題はよく見えないのではないでしょうか。」
M :「P133に 、「資本主義の拡大再生産のテンポ は、自然の永遠回帰に近づく」とされていますが、機械に関して我々は生物性を感じる時もあります。
ただし、道具と機械は区別する必要があるでしょう。
道具は手の延長であり、人間なしで勝手に動き、人間と独立に動くのが機械です。 オートマティズム、これと類比的に自然は循環します。
経済活動でも景気などを見てもわかるように、勝手にくるくるくるくる動く。
これを自然とみることができるでしょう。
この自然概念は奇妙だが、でも、社会全体の生命プロセスとする点で面白い。」
D:「拡大再生産で人間は自滅に向かっています。機械などのスイッチを切れば止まるのに、なぜかそのスイッチを切ることができない。それがこの原発問題と重なるように思います。」
M:「拡大再生産は生殖とも類比的に語られます。
資本の増大と、生殖、繁殖の自然現象とが、 同じにとらえられている。
スマホは、世界中に増殖していますが、それは止められますか?止められないでしょう。
最初は人間が作ったものだったが、もう無理でしょう。
生き物の性(さが) にはそういうものに入っているということではないでしょうか。」
C:「自然を永劫回帰ととらえているが、ダーウィンの進化論と混ざっているのでは。
繁殖なのか?進化なのか?
自然を永劫回帰というふうに 決めてしまっていいのでしょうか?」
M:「永遠回帰という 理解は昔からの自然観です。 近代以前には進化論はない。素朴な自然観です。
進化論が出たから永遠回帰の自然観はなくなるのでしょうか。そうではないでしょう。
近代に特有なカテゴリーで物事を考えたがるが 、それだけでは足りないので はないでしょうか?!」
D:「永遠回帰と進化論はどちらもダメなところがある。
原発が象徴だと思う。
こうなってまでも、永遠回帰のそっちのほうになってしまうのは、なぜ??」
E:「世界の手入れの心得を言っているんでしょうね。
この本はその先を指示してるわけではなく、その見方を手に入れただけで世界の見方が変わった。
それだけでいいのではないでしょうか。」
M:「掃除と炊事の優劣の問題が提起されましたが、食事が劣位にあるというのはドイツ的にはたぶんそうでしょう。
ドイツは、飯がまずく、町は、すごくきれいなことが印象的でした。
その反面、料理にあまり火を使わず、食へのこだわりが日本人ほどない。
それでも家事労働は2種類に分かれるのではないでしょうか。
食欲を満たす生産と消費そのものという面と、もう一つ、掃除などは世界をきれいにして世界のメンテナンスに役割を果たす仕事という面です。
その点で、一概に労働/仕事の区分ができない面があります。
一方、食事を作ると感謝されるのに、掃除にはやっても誰も褒めてくれないものです。
なぜ、掃除を重んじたのかというと 、震災瓦礫のそうじと、除染をみると、掃除をきちんと位置付ける必要があったというのが本書の意図です。」
C:「パンは食べたらなくなるし作品は 残るけど、音楽っていうものはどうなのでしょう?
音楽はなくなってしまうけど、ものだと書いてある。
持続はしない。 聴いたら物質的には消えるものでしょう。
モノや世界ってのを持続性って定義していいのか??」
M:「それはアクションのほうに入るでしょうね。活動や行為の瞬間の表れです。
人間の語りや行いは、すぐ消えてします。
その1回きりではあるが、物語になり、歴史になり、重要です。
音楽は、楽譜があって、その作られたものを解釈して演奏していくもの。 それは、ぎりぎりのモノ性ではあるのでしょうが。」
C:「料理のレシピも同じようなものかな?」
S:「自分の住みやすい環境世界を作るという点で、生物の巣づくりも仕事に入るのではないでしょうか。
すると、自然と世界を分けるのではなく、巣づくりは自然の延長で考えることはできないのでしょうか。
自然から世界へという連続的に考えられないのでしょうか?」
M:「人間と動物を連続的にみる自然主義 は普通に見られる考え方だけれど、そういう発想はアレントにはない。
人間も自然的なものから発展してきてるが、普通の動物と人間は違ってるというでしょう。」
「 ゴミ問題は、自然の外に出して 何とかしてきたが、それが、だんだんと対処できなくなってきています。
原発は今回の広島の土砂災害ほど簡単ではなく、散らしたからと言って無くならない超ゴミ問題として難問です。
新しい解決法は哲学をやっても出てこないが、新たな問題であっても考えていかなければならない。
後代から、あいつらこんなゴミを作って、と 言われ続ける点で超ゴミ問題です。」
ファシリテーター:「近代の生産性の増加から、まさに人間的なものからゴミ問題が出てきた。
生き物が出している排泄物などは、ゴミではなく肥料とかになるし。」
E :「ごみ問題とは分けて環境問題があります。
植樹、家を建てる、料理は、同じ分類で話されていたのかな。
幸福・幸せとかについては書かれていないと思いましたが、でも掃除などをして、世界を大切にしていくことは幸せになるものでしょう。」
F:「ごみ問題への向かい方の姿勢を考えさせられた。宇宙人として上から見ることはできるけど、大地から見ていく視点がだいじですかね。」
G:「ごみ問題はずっとあったはず。3.11以降、何が違うかと言いますと、おそらく当事者になった点が異なります。
でも、自然と世界の区分など、3.11以前よりあったのではなかったか。
それがなぜ「3.11以後の哲学の可能性」なのか?
なにかしたいのだが、世界を愛しましょうでは世界の見方が変わったと言えるのでしょうか?」
B:「ドイツ哲学は、人権に関する感覚が弱いのではないでしょうか?同じアレントの議論でも、3.11以後は『イェルサレムのアイヒマン』の方が響くものがあります。」
A・C:「善悪っていうのは世界の中にあるはずです。
自然とは別物だというのはその通りだと思いますが、世の中のシステムが個人の意思とは無関係に動いて行ってしまうものです。
この著書の考えを原発に当てはめるのは必要だが、原発システムをどうするのかを問う倫理の視点はどこに入り込めるのでしょうか?」
カフェの終盤になって参加者の本当に問いたい問題が提起されたところで、残念ながらタイムアップとなってしましました。
いつもながら、これは引き続き考え続けていく課題として積み残されましたが、今回はとりわけ色々な方のご尽力により可能になった企画となりましたことに感謝申し上げます。
まず本書と本書の著者である森さんにはもちろんですが、その出会いの場を与えて下さった加賀谷さんにも心より感謝申し上げます。
また、提題者にお願いしました島貫さんと深瀬さんには、その並々ならぬ意欲に対し、不躾にも「10分間」という不十分な時間ということでお願いしてしまいました。
失礼をお詫びするととおに、きっちりとその時間内でご報告いただけましたこと、心より感謝申し上げます。
また、今回は県外より多数の方々に来福いただけましたことも、あらためて御礼申し上げます。
ワタクシは本日、人間ドックであったにもかかわらず、あまりの痛快さに夜中の2:00まで懇親会で盛り上がってしまいました。
これもてつがくカフェ@ふくしまをご愛顧下さる皆様のおかげです。
ぜひ、またお会いできることを楽しみにしております。
次回の哲カフェは9月20日(土)を予定しております。
多くの皆様のご来場をお待ち申し上げます。