てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第29回てつがくカフェ@ふくしま報告―「人生のパートナーとは何か?」―

2015年04月12日 09時10分38秒 | 定例てつがくカフェ記録


昨日、「人生のパートナーとは何か?」というテーマで、第29回てつがくカフェ@ふくしまが開催されました。
参加者は16名。
会場は初の「イヴのもり」です。



書籍棚にたくさんの本が並ぶとても落ち着いた空間で、対話もいつもよりじっくり展開しました。

ところで、今回は世話人杉岡の結婚を祝してのテーマ設定とさせていただいた経緯があります。
そして、当のご両人にもご参加いただいたわけですが、みなさん、そんなことおかまいなしに「人生のパートナー」に関して自由な発想を披露して下さいました。
以下、その模様です。


「パートナーというと、協力関係や互恵関係を持った相手という存在だと思います。人生のパートナーというと一般的には、結婚パートナーを指しますが、それに限らず時には同性だったりペットだったりいろいろなケースがあるでしょう。まず人生のパートナーは必要かと考えると、たとえば、フィギュアスケートを例に考えると、一人でパフォーマンスを発揮できる羽生結弦選手のような人であれば、パートナーは必要ではないかもしれないけれど、ペアを組んだ演技の場合には、二人でしかできない演技があるでしょう。1+1=2以上の演技ができる場合にはパートナーに価値があります。場合によっていない方がいいこともあるけれど。じゃ、人生も同じかというと、そうとも言えない。スケートの場合には観客がいるけれど、人生に観客はいません。評価は自分自身がするしかない。人生の場合は山あり谷ありなので、お互い足を引っ張り合う場合もあるが、結果的にそういう状況になっても、パフォーマンス以外にもパートナーを持った方が慰めあったりできるから、パートナーがいることでパフォーマンスが下がっても、その存在には価値があると思います。」

「人生のパートナーには、男女間のパートナーと同性同士のパートナー、あとはペットみたいなパートナー、モノもパートナーとして考えられると思います。」

「いや、私が考えるのは互恵関係にあるものなので、一概にモノをパートナーとは言えないのではないかと思います。」

「自分自身のことで考えると、人生のパートナーは私自身だというのが答えです。そう考えると私のパートナー何なんだろうと考えたら、逆説的にそれは人生だったと気づかされました。というのも、私の人生60年間に出会った人たち、親密だったりそうでなかったりする人たちが、慰めたり気づかせてくれたりした人たちが、みんなパートナーだったなと思うのです。私の感覚的なものがあって、それがこの人とお付き合いしてみようとか、そういうものが土台にあって色々な人たちに出会わせてくれたと思っています。もう少しいうと、もう一人の私みたいなのがいて、付き合いの方向を指示してくれるのです。最近では、インターネットの情報もそれに当てはまると思います。」

「世の中にはモノと結婚する人というのがいるらしいんです。中にはエッフェル塔と結婚した人がいるらしく、その時の求めているものによって人であったりモノであったりするのはありうるんじゃないでしょうか。」

「パートナーとは自分の何かを埋めてくれる存在だとすれば、それは機能的なものペースメーカーもそれに含まれるのではないでしょうか。」

「うーん…たしかにメガネなしじゃ生活できないけれど、メガネをパートナーだと思ったことはないなぁ…」

「足りないものを埋めるのもパートナーの役割だと思うけれど、私には毎年一回会う友達や10年に一度くらい会う友達もいて、彼女たちが足りないものを埋めている感じはしないです。その時に会ってお互い、相変わらずだなとか確かめて別れるものだけれど、それは自分の人生のパートを受け持ってくれているという感じで、足りないという感じでもない気がするのです。」

「当初テーマを立てたとき、人間同士の関係のことを想定していたのだけれど…、まさかモノがパートナーだという展開になるとは思ってもみませんでした。」

「私もお互いに協力し合うのがパートナーというイメージでした。」

「私の場合には、10年に一度会う友達も10年分も支えてくれているような存在であるという点でパートナーの中に入るという感覚があるんです。」

「人生のパートナー=結婚相手と答えられる人はものすごく幸せだと思います。わたしは娘と息子はかけがえのない大事な存在ですが、彼らは守り育てなければならない人たちなのでパートナーではありません。わたしにとってパートナーとは「信頼して自分をゆだねることができ、かつ同じ力量でお互いを想い合える相手」だと思うからです。そう考えると、てっとり早くパートナーを得るには、会社を作って共同経営者を探すのがいいような気もしますが、会社でのパートナーは経済的な基盤を共にするという点でしか結びつかないので、それは完全にその人を中心に、その人のありのままを大事にして生きていくことができません。なのでわたしにとってのパートナー定義は愛情由来でないと成立しないことになります。だから何回でも結婚ていいなって思ってしまうのです。」

「やはり、相互性の有無がパートナーの条件と言えるでしょう。」

「そう。だからパートナーになりうるのは、同じ種族でないとダメだと思います。」

「私の場合だと、人によってパートナーシップのパターンが違います。相手によって仕事のパートナーであったり、趣味のパートナーだったり、生活のパートナーだったり、その領域のパートナーは別々に存在すると思います。もう少しいうと、人生のパートナーとは自分自身との関係だと言う意見に賛成です。他者とのパートナシップの関係性は切れる可能性がありますが、この関係性だけは一生切っても切れないでしょう。」

「パートナーって時間が関係するのではないでしょうか?ダンスは踊っている間がパートナーだし。長い付き合いだからといって、パートナーとは限らないのではないでしょうか。」

「これまでの議論を聴いていると、パートナーシップの定義づけがわからないですね。それが確定していないところでは、そのとらえ方によって人でもモノでもOKになってしまいます。私はモノに対してパートナーシップを感じませんが。たとえば、パートナーシップは英語で訳すと「組合」になります。」

「たしかに、日本語としてパートナーに正確に対応する言葉はないのかもしれませんね。私の場合は「相棒」という意味で理解していますが、すると、先ほどの意見のようにみんながパートナーになりうるということには賛同できません。パートナーと言えるからには、その人でなければならない限定性があるとおもいます。」

「たしかに、パートナーには唯一性やかけがえのなさといった限定は条件になるのかもしれませんね。」

「もちろん、誰でもいいわけではないですが、私にとっては出会った人の多くがかけがえのない存在なので、ほとんどがパートナーと言えるのです。ただ、私のことを一番理解してくれているという点では、自分の子供たちかもしれません。そう考えるとパートナーは子供かなとも言えます。突き放すときは突き放すし、受け止めてくれるときは受け止めてくれる存在という意味ではそうですね。」

「先ほどの意見では、育てている途中の子供はその対象にならないと言っていましたが?」

「余裕のない子育ての時期には、パートナーとは思えなかったが、10年前程から人間的なやりとりのできる大人に成長できたからだと思います。」

「すると、対等な存在がパートナーと言えるのではないでしょうか。すると、モノはその対象に数えられないのではないでしょう。」

「バドミントンをやっていると、ダブルスで組んだ相手を選べないというケースや、相手の技量と対等でないケースがあったりします。そんな時はイライラしたりすることもあります。その点では、パートナーは理解者とは少し違うと思います。つまり、目指すべき目的があって、それに向かって何らかの協調関係にある相手であって、理解者とは違う気がします。」

「目的がパートナーの条件だというのであれば、成長させてくれる相手のことだと思います。会話の中で色々な気付きがあります。人と人と出会ったりモノと出会うことで、新しい次元に立つステップに立たせてくれるものや、その人といると穏やかで安らぐというのもパートナーであれば、そこには目的はではなくて、喜びや豊かさを与えてくれるような存在なのだと思います。」

「スポーツのパートナーにしても、基本は両思いでなければならないですよね。相手がパートナーとして認識していなければ、パートナーシップは成り立たない。」

「でも、それは持続するとは限らないですよね。」

「当初は愛情のパートナーが、経済的なパートナーに変わることもあるということですよね。」

「パートナーをなぜほしいかというと、単純に私の場合は不安を解消してくれる相手がほしいということです。互恵関係であっても互恵関係になくても、不安を解消してくれるのであれば、それはパートナーとしての価値が出てくると思います。」

「それはモノでもいいですよね。」

「モノでもいいです。相手の承認も必要ない。」

「不安を解消するためには相手の承認も必要ないとなれば、それってストーカーもありになりませんか?」

「ありになりますね。」

「でも、信頼関係と依存関係は違うよね?」

「これまでの議論を聴いていると、パートナーには二種類あって、目的のための手段としてのパートナー概念と、私の相手は無条件に『その人でなければいけない』という目的それ自体としてのパートナー概念です。これが混在している気がします。」

「私の意見は目的-手段説に近くて、目的がなければパートナーとは言わないんじゃないかなと思います。結婚も家族も何か目的があって成り立っているのではないでしょうか。それぞれ子供ほしいとか、大きい家がほしいとか、目的にふさわしい相手を求めるものでしょう。」

「たしかに、ナポレオンが制定したフランス民法典には、結婚は子どもの成人とともに解消されるということが規定されていました。つまり婚姻関係は、子育てという目的に下に成り立つパートナーシップ関係だということですよね。これが普遍的な考え方だとは言えませんが。でも、「人生のパートナー」といった場合には、「人生の目的」が前提になる問いです。すると、人生の目的とは何かということを考えなければ成り立たない問いになっていますね。いや、そうではなく、そもそも人生という大枠の下に結婚や子育てといった小目的があって、それぞれにおいてしかパートナーシップ性は成り立たないということなのでしょうか。すると、問いの設定そのものが、また誤っていたのかもしれませんね。」

「いま、人生の目的という話になりましたが、クリスチャンの場合、それは神が与えてくれたものとされていますよね。でも、ヨーロッパでさえ、神は死んだことになりつつあり、神が生きる目的を与えたという意識が希薄になっていると聞きます。すると、実存主義のように、生きる意味なんて最初からないんだよ、だから人生面白おかしく生きようよ、となってしまう。もし、その思想のように、人生の目的などないのだとなってしまえば、そもそも人生の目的に向かうパートナーなど不必要ではないかということになりませんか。」

「いや、私の考えでは、人生の目的がわからないからこそ、それを一緒に考えるためのパートナーが必要だということです。その究極的な対話の相手が自分自身だということになります。ただ、自分自身なんてたかが知れた存在です。だからこそ、人生の意味を考える上ではパートナーとしての他者の存在が必要なのです。」

「人間は生まれ変わるものというスピリチュアルな考え方からすれば、人生の目的はそれぞれ違うというのが前提ですが、その目的に向かうためのパートナーは生まれる前から決まっています。そして、魂のレベルアップのために色々な人と出会い、色々な経験をするのです。」

「でも、それって、生まれ変わりを信じている人の前提であって、人生が一度きりだという考え方の前提に立つと、求めるパートナーのとらえ方が変わるのではありませんか?」

「たしかに、30前後にして、結婚のパートナーとしてこの人でいいのか悩む人はけっこういます。この機会を逃したら、もう結婚のチャンスはないのではないかと思うと、パートナー選びはメリット・デメリットを計算に入れた戦略的思考にならざるを得ないでしょう。」

「人生一度きりだと考えると、『この人との結婚はボランティアだ』とは言えませんね。」

「メリットがなくなればパートナーでなくなるのでしょうか?」

「たしかに人生一度きりのものだし、パートナーは一瞬一瞬のものだと思います。だから、人生のパートナーが同じだとは限りません。」

「でも、この人がいなくなったら困るような存在と考えればどうでしょうか?この人がいなくなると精神的に立ち行かなくなったり、人生の継続が危うくなる存在がパートナーだと言えるのだとしたら…」

「ところで、パートナーを求めずにはいられないものなのでしょうか?」

「最近の若い人たちのあいだでは、傷つきたくないという理由で、パートナーを作ることに消極的になっているという話も聞きます。」

「ひとり暮らしになり、誰もいないアパートに帰ってきたときに寂しいと思ったとき、必要だなと感じました。」

マズローの欲求五段階説によると、生理的欲求から安全欲求が満たされて、社会的欲求、尊厳欲求、自己実現欲求に変わっていくと言います。だから、まず生命の安全が確保されていなければ、パートナーを求めるということに欲求が向かわないのではないでしょうか。」

「でも、安全欲求が満たされていないがゆえにパートナーを求める人もいますよね。たとえば、恋愛に依存的な人というのは、マズローでいえば、生理的欲求・安全欲求が満たされない段階でも他者を必要とするとも言えるのではないしょうか。」

「依存関係でも対等な関係でも搾取関係でも、そこに何か目的があるのであれば、パートナーを組むことで人生を楽しめばいいと思います。」

「個人的には結婚願望はないけれど、人間に生まれた以上、一度は結婚したり子供を持ったりしてもいいかなと思いました。」

「先ほどから人生のパートナーは人間であって、モノではないという議論が展開されてきましたが、私にとっては絵を描くことを失ったら生きている意味を感じられなくなってしまいます。そう考えると、絵をかくという行為がパートナーなのかなと思っています。それは単に自己満足ではなく、自分の考えたこと、伝えたいことを誰かに絵を描くことを通じて実現するという点で、単なる自己満足とは違うものだと思っています。」

「パートナーって、ぜんぜん人ではなくてもいいんですよね。」

「パートナーの条件に、生きる意味というのがつけ加えられましたね。」

「おっと、冒頭の議論に戻ってしまった!」

「これまでの話を聴いていて、頼れるのがパートナーなのか、頼られるのがパートナーなのかわからなくなりました。頼ってばかりいると依存していると思われるものなんだかなと思いますし…」

「これまでの議論では、パートナーシップの条件として信頼と依存の話も出てきて、対等性と相互性の話も出てきました。」

「対等性と依存に関していうと、自分の子どもが大人として対等に言ってくれると、何を言ってもいい心地よさを抱くようになりました。信頼は子供を通して学ばせてもらったと思います。」

「パートナー関係と依存関係の違いは、相手の分を負担しなければいけないモノがあるかないかだと思います。それは道連れといった方がいいかもしれない。共同生活にしている共益費等がそれに当たりますね。」

「人間との関係でいうと相互性とか対等性がカギになるが、コミュニケーションが成り立たないこのとの関係は、やはりパートナー関係になりえないのではないでしょうか。」



当初予想していた議論とは異なる展開に、戸惑いもありましたが、それが哲カフェのおもしろいところでもあります。
この後の懇親会では、さらにパートナーとは何かについて議論が深め、夜が更けていきました。
次回の哲学カフェ@ふくしまは、5月23日(土)を開催予定としています。
多くの皆さまにご参加いただければ幸いです。