てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第14回カフェ報告

2012年11月26日 07時47分11秒 | 定例てつがくカフェ記録
 



第14回てつがくカフェ@ふくしまはA・O・Z(アオウゼ)の大活動室4にて、17名にご参加いただいて開催されました。
ここは中学校の技術室のような空間で、いつもと雰囲気の異なる空間です。
テーマは「わたしの身体はわたしのものか?」。
わりと身近で具体的な話題にもなるかと思いましたが、抽象的な議論が中心に展開されていきました。

まず「自分の身体は自分のものか」という点について、自分のものではない気がするという意見が出されます。
そのことを自分を越えた何ものかからの「預かりもの」、「借りもの」と表現された参加者がいました。
「自分を超えたもの」とは、宗教的に言えば「神」と言い切れるかもしれませんが、そう言い切ってしまっていいのか。
そんな逡巡を交えながら、自分を超えた存在から借りたものであり、それを用いて自己を表現する、いわば楽器のようなものが身体ではないかというわけです。
あるいは「自然」と言い換える考え方も示されましたが、いずれにせよそのような自己超越的な存在を想定して議論を進めるべきかどうか歯切れの悪いまま議論は進行します
それについては、スピリチュアルな観点から、わたしの身体は生まれる以前にわたし自身が選んだものであるという意見も出されました。
この二つの意見には「わたしの身体はわたしのものだけれど、同時に全体のものである」という理屈が含まれています。
これらの意見のように、いきなり身体論が超越的な存在との関係で論じられるとは予想外でした。

しかし、こうした意見に対しては「恵まれたものの論理」ではないかという意見が出されました。
世の中には、生まれながらにして苦痛を抑えることのできない難病を負って生まれてくる人々が無数に存在します。
あるいは紛争に巻き込まれて、身体を損傷する人々も無数に存在します。
そのような人たちに向かって、「神からの預かりもの」や「わたしが選んだもの」という論理は果たして通用するのか。
厳しくも考えさせられる意見です。

一方、やはり自分の身体は自分のものであるという意見も出されます。
病気になったり生命を脅かされないために、自分で自分の身体のケアに努めるのはやはり自分です。
それが自分のものでなかったとしたら、ではいったいこの身体は誰のものなのか?
たしかに、この身体を他人に勝手に侵されたのではたまったものではありません。
その意味でわたしの身体は不可侵のものです。
そのことを人権や権利という概念と関係しているのではないかという意見も出されました。
では、果たして、この理屈によって、自分のあらゆる身体を自由に処理できることは可能なのでしょうか

これについては、「自分の生命に危険を及ぼさない限り認められる」という意見が出されました。
なるほど、生体肝移植や骨髄移植は生命に影響はない上で合法的に認められています。
とはいえ、それらには体調が不調になる恐れや身体的苦痛を伴うでしょう。
いくら我が子のためとはいえ、それらの理由で移植を拒むケースは当然ありえます。
すると、けっきょくその選択を分ける基準は、その人の価値観によるということになるのでしょうか。

てつがくカフェでは議論に行き詰まると、「最終的にはその人の価値観である」という点に帰着するケースがしばしば見受けられます。
今回もまた、ピアスや刺青などの身体加工についても、自分の生命に危機を及ぼしたり他人に迷惑をかけない限り、その人の身体をどう処分するかは、その人の価値観であるという意見が出されました。
いわゆる自由主義に立つ正当な考え方でしょう。
しかし、けっきょくその基準は相対的ですし、いわゆる許容される基準を決めるといった「線引き」論は法律論としては通用しても、根本的な問いに向かい合う哲学的思考にはふさわしくないように思われます。
「状況や目的によってその許容基準は異なる」という答えも同様でしょう。
会場からは、まさにそのような無限後退的な思考法の限界を指摘する意見も出されました。
たとえば、議論の中ではどこまで身体を切り刻んでいけば「わたし」ではなくなるのかという問いも投げかけられましたが、その結論が無限後退していくだけで根本的な解明に向かわないのではないかという疑問です。
「どこからどこまで」がという、ある種、空間的な幅で問おうとする方法の適用の仕方の誤りといえばよいでしょうか。

では、どのように問うべきなのか。
これに対して、あらためて「そもそもなぜ生命が大事だといえるのか? 自殺はなぜいけないのか?」という問いが投げかけられます。
身体は生命そのものを保つために必要なものならば、生命そのものを失わせるのでは身体にとって本末転倒ということになります。
しかし、なぜ生命そのものが優先される価値を持つのか、そのことを考えてみたいという問いです。

また、「わたしのものである」とは、いかなる権利をもってそういえるのか、そのことを考えるためには「所有とは何か?」について考える必要があるだろうとの問いも投げかけられます。
そもそも「わたしの身体はわたしのものである」という命題は、この「所有」という制度を前提にして成り立つ問いであって、「所有」そのものの観念がなければそのような問いは成立しないのではないか、というわけです。
なるほど、「所有」は近代社会の勃興とともに整備されてきた概念です。
先述の身体に対する権利や人権が関係するのではないかとの意見も、こうした所有権という制度の成立と不可分であるともいえそうです。
では、所有の対象とは何かといえば、たとえばそれは働いて稼いだおカネで入手できるものとか、自分の努力の成果として正当に獲得しうるものを指すのではないでしょうか。
さらに、自分のものにするということは自分の支配権が及ぶものとなり、その点でコントロール可能なものが所有物ということになります。

しかし、なぜかそれら「所有」の理屈が身体に関してはしっくりきません。
そもそも生まれながらの自分の身体は親につくられた(与えられた)ものであって、自分で選んで獲得したものとはいえないでしょう(スピリチュアルな意見ではそうではないのですが)。
だからといって、自分の身体は自分以外のものだという理屈もしっくりこないでしょう。
健康管理の主体はあくまで自分の責任においてなされるものだ、という意見はそのことを言い当てています。
ところが、その当の発言者もまた、その直後に「高熱に浮かされているときは、まるで自分の身体ではない感じがしますが…」と身体が自分のコントロールの利かない事態があることも指摘していました。
たしかに、内臓などは自分の意志でコントロールできるものではありません。
その意味で、内臓などは自分の内なる他者、外部と言いうるかもしれません(はじめて胃カメラを飲み込んで自分の胃袋を見たときの衝撃!)。
にもかかわらず、わたしの生命維持にとっては必要不可欠ものです。
それを自由処分しうるのは、いかなる根拠があってのことなのでしょう。
その疑問については、そもそも所有というのは自分の外部にあるものを対象とする概念であるのに対し、身体論の場合は自分の内部に向かって用いようとすることに、その問いの難しさがあるという指摘が挙げられました。

校則を例に身体を加工の問題を考えれば、自分の身体は自分のものなのだから、ピアスだろうが茶髪だろうが自由でいいじゃないかといいたくなる一方、しかし何かしっくりしない答えの気持ち悪さが、しばしカフェの時間に漂います。
ある参加者によれば、教員などやってしまうと、生徒に示しがつかないなどの理由から茶髪はおろかピアスすら断念せざるを得ないという声さえ出されました。
公務員のタトゥーが解雇問題につながるような時代です。
こうなってしまうと、「わたしの身体は世間のものである」とも言いたくなるでしょう。
たしかに、身体が社会的側面をもつことは否定しようがありませんが、だからといってそう割り切る論理が支配的な社会になるのも、ずいぶんと息苦しくはないでしょうか・・・・・・。



そのことを身体は「アイデンティティ」とつながっていると表現する意見も出されました。
あるいは「自己表現」の手段や媒体との意見も同様でしょう。
とはいえ、これは必ずしもアイデンティティの手段や道具と位置づけることを割り切れないようです。
それはまさしく「所有」という概念ではなく、暫定的でも「所属」という言葉の方が言い当てているように思われるとの意見が出されました。
「所有」が身体を手段としてみなしているのに対し、「所属」とは自分のアイデンティティと一体不可分であること言い表しているように理解できるのではないか、というわけです。
あるいは、その言葉の意味を先述の「神」や「自然」からの預かりものという考え方に即して言えば、自分を超えた存在に属すものという見方にもつながるかもしれません。
ともかく、身体について自分の内部に向かって捉えようとする限り、所有概念ではつかめ切れない事だけは浮かび上がってきました。

この問題は、ふつう「心身二元論」と言われる身体に対する見方に対しても、異なる視角が提示できそうです。
つまり、心身は分かれず、その人の存在そのものである、と。
いや、それでも身体は精神を根拠とする「わたし」=自己が入り込む「箱」や「器」ではないかという意見も出され、心身二元論から離れて考えることの難しさを示しています。
終盤、この問題を考えるためには、やはり「わたし」とは何か突き詰めないところでは答えが出ないのではないかという問題提起が為されましたが、残念ながらそれは次回以降のテーマへ譲ることになりました。

さて、今回の議論は、どんどん遡行的に問いが根源へ向かっていき、そこへ向かえば向かうほど抽象的な議論となってしまい、なかなか対話に参入しにくい難しさがあったかもしれません。
時として対話が途絶え、「あれいま何議論してるんだっけ?」という瞬間も多々ありました。
そういう沈黙のストップモーションは、実はファシリテータにとって、とっても重苦しい瞬間であるのですが、しかし今回のカフェは訥々とでも、すごく哲学的な、つまり遡行的な思考へ登りつめていく感触がありました。
その理由を今考えると、今回ほど問題状況をどの言葉で言い当てればよいのかはっきりしない、ものすごく気持ち悪い感覚が参加者の皆さんに共有できていたからではないかと思います。
その意味で、今回のカフェでの議論は、いつも以上に言語の限界を突き抜けようと足掻く参加者の皆さんの姿が見受けられたようの思われます。
ひょっとすると、自分の身体を言葉でつかもうとするのは、言葉の限界を突き抜けている事態なのかもしれません。自分の生の顔を一生見ることができないのと同じように。

このような時間をさらに皆さんと深めながら共有していきたいと思います。
ご参加いただいた皆様、また次回以降もお会いできることを楽しみにしています。
そして、少しでもこのてつがくカフェ@ふくしまにご関心をお持ちの皆さま、まったく自由に誰でもこの場は開かれています。
多様な人が集まれば集まるほど、この空間はおもしろさを増します。
多くの方々にお越しいただけることを、心よりお待ち申し上げます。