てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第4回カフェ報告

2011年08月28日 13時30分08秒 | 定例てつがくカフェ記録


第4回テーマ「血は水よりも濃いのか?―家族はどこまで他人か?―」

「血は水よりも濃いのか?」
この言葉は、家族のつながりの強さは他人以上であるという意味で用いられます。
しかし、この場合の「血」とは何か?「水」とは何か?「濃い」とは何か?
その内容をめぐって、そしてその関係性の優劣をめぐって議論は深められました。

まず「血」といった場合、それは血のつながった家族を指し、「水」といった場合はそれ以外の他人を指すものです。
「濃い」とはその血のつながりのゆえに、家族同士の愛情は深いのだという意味でしょう。
けれど、「生みの親より育ての親」という言葉もあるように、単なる血のつながりだけでは愛情の深さを意味しないのではないでしょうか?
これについては、ほとんどの参加者がテーマの問いに対して「NO」と答えていることからも確認されました。
しかし、「NO」と答えるにもかかわらず、「あたたかい家族が欲しい」や「子どもは欲しい」、「神から与えられた生殖機能は使わなければならない、子どもを持つことは義務である」との意見も少なくありません。
これはどうしたことでしょう?

これについては「家族だから愛情が深い」のではなく、苦楽をともに共有できるからこそ関係性が深くなるのであり、その「存在」が家族なのだという意見が挙げられました。
つまり、そのような関係性はやはり必要だというわけです。
「愛とはともに過ごす時間である」という考えからすれば、その通りでしょう。
すると、「血」とは必ずしも生物学的な意味で用いられるものでもなさそうです。
実際、参加者の中には、血縁関係にはない他人同士の共同生活をされた方から家族との異同はないとの意見も出されました。
けれど一方で、その共同性が最終的に死の看取りや介護などまで可能かといわれると、それはよくわからないとのことでした。

そこには「他人はしない(できない)けれど、家族にはする(できる)こと」があるのはなぜか、という問いが含まれています。
たとえば、介護において排泄処理は家族だからできるとか、他の子にはしないけれども自分の子には躾と称して暴力を振るえるなど、身体的なものへの直接性が家族においては認められているように思われます。
実は、これはDV(ドメスティックバイオレンス)のように、もっとも安心できる領域だとされてきたはずの親密圏において、なぜ深刻な暴力が可能になってしまうのかという問題とも密接です。
意見の中には「家族には弱みを見せることができる」が、それは家族に暴力を振るうこととの関連性も指摘されました。
というのも「暴力」とは「弱さ」の現れだからです。

この問いに対しては、逆に家族だからこそ排泄処理などはして欲しくない、むしろ他人の方が気楽に任せられるとの意見も出されました。
にもかかわらず、親-子関係において「イライラする」感情が生じてしまうのは、それが親子同士で「似ている」部分が見えるがゆえにであるとの意見が出されました。
ということは、「似ている」がゆえに暴力も可能になる、なぜならそれは自分だからという理屈も成り立ちます。

実際、親子とは自分と鏡の関係であり、知らない自分を映し出す関係性であるとの意見も出されました。
しばしば「近親憎悪」という言葉も用いられますが、その意味で言うと「血」とは生物学的に否応なく似る部分を共有してしまうがゆえに生じる愛憎関係のことかもしれません。
よく「愛」と「憎しみ」は表裏一体のものだといわれますが、その意味で言うと、この「血」によって「似る」ことが愛憎を生み出すということでしょうか。
すると逆に、「血」が「濃い」とは、家族関係には無条件に「無償の愛」が備わるという意味も含まれます。
果たして、この家族への「無償の愛」とは生来的に備わるものなのでしょうか?
もちろん「備わる」との意見もあります。「備わると思いたい」との意見もあります。

それについて、やはりDVとの関わりから興味深い意見が提起されました。
しばしば虐待を受ける子どもはその被害を親を庇うかのように、その事実を隠すことがあると指摘されます。
実は、それが、子どもがDVという暴力空間で生きるための対処術として用いる「無償の愛」という論理だというのです。
どのような意味か?
その意見によれば、子どもは交換的な愛によって生きることはできません。
「これができればこれをあげるよ」といったやりとりでは、身がもたないからです。
子どもは無条件に与えられる贈与としての愛がなければ生きていけない存在なのです。
もちろん親にしてみれば、わが身の分身である子どもに対する所有欲やエゴイズムの現われとしての行為があるでしょう。
DVはその極端化した現象です。
しかし、子どもにしてみれば、それが無償の愛の現れだとみなさなければ生きていけない。
さもなければ親から見捨てられたことを意味し、その子の生命は危機を意味するからです。
すると、親から無償の愛を受けているとみなさなければ生きていけない子どもにしてみれば、それが親を庇う=自分を守る行為として転化されるというわけです。
その意味で子どもにとって家族に備わる「無償の愛」とは、生きるために「あるべきもの」とみなさざるをえないものとなるわけです。
しかし、そうであるがゆえに、それは「偽装の無償の愛」という装置なのです。
なぜなら、「血」とはそれが無条件に備わっている関係性のことだと、説明なしに納得させるためのメタファーとして機能するものだからです。

これについては、歴史的にみても「血」という言葉が、説明なしに何かを結束させる力が働くメタファーとして機能してきたことを指摘する意見もありました。
しばしば家族や父性・母性の復権を求める主張が、個人主義化を批判し共同性を回復するために機能するというのはこの文脈において理解できるでしょう。
その一方で、それがヒップホップの歌詞に散見されるなど、最近の若者文化に現れているのはなぜなのかという問題提起もありました。

さて、この重い意見との関わりでは、次の意見も大切であるように思われます。
その意見によれば、家族とは自分の行動が制限される「邪魔な存在」であるにもかかわらず、「離れたくても離れられない」関係性だということです。
たとえば、日本では犯罪加害者の家族を同罪とみなすような文化があるいとされます。
その罪を当人以外に拡大させることは非合理以外の何ものでもありません。
にもかかわらず、その意見によれば法的な意味での罪ではなく、一緒に抱えていくような義務が家族にあるというのです。
なぜなら、それは「血」であるがゆえにそうだというのです。
興味深かったのは、これがけっして家族には愛が存在するからということではなく、家族とはそれを抱える関係性そのものをさすものだという点です。
したがって、その関係性においては「無償の愛」があるからではなく、「無償の愛」があるとみなさなければ、家族関係で阻害されることそのものを納得できない、自由を制限されることがやりきれないからだというのです。
これを先に挙げた「偽装の無償の愛」と呼ぶには躊躇われますが、しかし「愛」があるとみなさなければ生きていけない関係性という意味では、奇妙に符合する議論であったように思われます。

私(渡部)が個人的にこの意見を聞きながら思い出すことは、やはり親に対する子どもの家庭内暴力においても、やはり責任感が強い親ほど「自分の子どもだから」との意識から、すべてを家族だけで抱え込むケースを思い起こします。
そこにおいてもやはり「親は子どもを愛すべきもの」とみなす論理が、無条件に備わっていたのではないでしょうか。
そうであるがゆえに最悪の結末に至ったケースさえあるでしょう。
どうも、「血」が「濃い」という論理が生来自然に備わるものとみなすことには、そのような暴力性が孕んでいるように思えてならないのですが(個人的な事情が強すぎるのでしょうか・・・)。
むしろ、血縁を超えた関係による新しい関係性は時代を追うごとに多様性を増しているように思われます(フランスのPACS法しかり)。
それがよいとか悪いとか言う議論を超えて、社会自体がその関係性によってしか成り立たなくなっているのかもしれません。
その意味で言うと、「血」に結束を収斂させようとする議論は、もはや時代のスピードに追いついていないのではないでしょうか?

さて、議論は「血」と「水」、「濃い」という点に集中したため、ファシリテータとしては迂闊にも「家族はどこまで他人か?」という点について深めることを疎かにしてしまいました。
ただし、この点に関しては親の期待をどこまで子どもが背負わされるのか、という問いについて提起させていただきました。
親の世代には成し遂げられなかったことを子どもに代理させる問題、つまり分身とみなす親のエゴイズムへの問いです。
親に自分が他者であることを教えてあげるのは子どもだけではないでしょうか。
これについては、先行世代の欲望が次世代で成し遂げられてしまう時代のスピードが早くなっているがゆえに、その代理のエゴイズムが強くなっているとの意見も出されました。
いずれにせよ、この点については宿題として積み残した感があります。

毎度のことですが議論はこれに尽きませんでしたが、そのすべては書ききれません。
あるいは書き手の誤解に基づく解釈になっているかもしれません。
その点につき、、ご参加いただいた方には、ぜひコメントにてファシリテータが見逃した議論をお書きいただければ幸いです。
また、参加されなかった方もどんどんお書きいただき、ブログ上での議論が活発化すれば幸いです。

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

第4回カフェ・参加者感想

2011年08月28日 08時40分32秒 | 参加者感想
第4回カフェは10名の参加者で開催されました。
毎度のことですが、ご自身の体験を交えながら濃密な議論が交わされました。
その内容については、後ほど報告させていただきます。
以下は今回ご参加いただいた方々の感想です。

●テーマ「血は水よりも濃いのか?」。最後までしっくりこなかったのですが、血の持つ力とか、得体の知れないパワーというものが確実にあることがわかりました宮城県古川市より参りました。時間が許す限り参ります。ありがとうございました。

●おもしろかったです。今回のテーマ「血は水よりも濃いのか?」。何かがつながったり、気づいたりするだろうかと思いながら今日はきました。少人数のこういった形は初体験で、まさか話を振られるとは思ってもいませんでした。自分の中がコチャコチャして楽しいです。ゆっくりグルグルしたいと思います。

●血については違う論点で考えられると思います。①家族愛…自分が親から与えられた愛もしくは暴力など家族の形として形成されたイメージを次世代に反映させる。②血を大切にする…皇族、身分の高い方々。自分の親戚以外、もしくは学歴の低い方を家族に入れるのを嫌がる。異端を嫌う。血が薄まること、遺伝子の違う人(性格能力が編に突出しない人)が出るのを嫌がる。

●1つのテーマで話し合うという機会は普段はなかなか得られないので貴重な時間に感じます。理解が追いついていないので、ブログでまとめていただいたものを読ませていただいてからゆっくり理解しようと思います。お世話になりました。楽しかったです。ありがとうございました。

ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。
今回は仙台のメディアテークからの取材もあり、後日、今回の議論が映像でネットにアップされる予定です(皆様のプライバシーには配慮されます)。
ブログでも今回の議論をまとめますが、今回残念ながらご参加いただけなかった方々も含め、皆様からコメントをお書きいただきながら、ブログ上でも継続して議論できれば幸いと考えております。