風に吹かれてぶらり旅

まっすぐに生きる人が好き

これが答えだ!

2006-01-08 04:21:03 | Weblog
 お風呂の中で考えた。
どうして勉強がはかどらないんだろう?
どうしてなんとなく無力感があるんだろう?
どうして自分に自信がもてないんだろう?

 そして仮説をたててみた。
私は生来の怠け者だから。
周りの評価を行動の主軸にしているから。
そして失敗を恐れ、無駄、後悔を恐れている=正解を求めているから。

 正解ってなんだ?
これが答えだよ。ってこと、成功したって結果。

 そんなの、死ぬ間際にならないと分からないよなぁ。
「いい人生だったなー」と思って死にたいよなぁ。
死を迎える時の自分が今の私に声をかけるとしたら…?
「おーい、いくら迷っても遠回りしてもいいから方法は自分で試行錯誤して考えなよね。簡単に、君の求めてる「答え」ってのが見つかったら面白くもなんともないんだからさー。でも、私は今幸せだよ~、本当に感謝だよ~、じゃあ迎えがきちゃったから、そろそろいくよ。またどこかで会いましょう、さようなら」なんて言いたい。会えるわけないんだけどさ。

 私って怠け者か?
うーん・・・そうとも言えるし、そんなことない気もするぞ。
だって、てきぱき動いていないと気がすまないし、やることが絞られると集中できるし、本気で物事に取り組むって楽しいと思うもんなぁ。その力の入れどころやもっていき方のピントがあっていないから疲れるのかもしれない。それで集中力を欠いているのでは…。

 周りの評価を行動の主軸にしている、多分これだな。
例えば、身近な例で高級ファッションブランドはなぜ高価でも人々に支持されるのか。ブランドはある一定の品質の基準を満たしているという保証だから。そして、そのブランドを持つということはステータスシンボルであるから=周りへのアピール、また周囲からの高い評価を自分に付加することを求め、期待するから。私は素材そのものや縫製や加工の技術、デザインなどが優れているということの証だからいわゆる「ブランド」は概して好きだ、自分に似合うかは別として。品質と名声が伴っていないブランドや品物も数多くあると思うけど。
 私はだから○○のブランドが好き、といえる、そこはブレていない。
ただ流行っているからとか、有名人が持っているからとか、そういう周りの評価ではなく自分のものを見る目や感性を基準としている。どう優れているかという判断基準となる情報が自分にない場合は選択を誤ることもあるけど。
 
 例えば大学を学校名で選ぶ。学歴社会だからいい学校をでたいという考え。
学歴社会で成功するためには学歴が必要だ、その学校を出ているということはある一定の学力の基準を満たしている、あるいは満たす努力をしたという判断基準になる。ただ、何のためにその努力をしたのか?ということが一番肝心だ。
このままの考えだと、社会で評価されるため、だ。

 そんなの、いらねぇよじゃなくて、いらないわよ!と全否定はしない。
私もただ「大学生になりたい、自分はこんなもんじゃないはずだ」と思って勉強したのは無駄ではなかったと思う。でももっと実りある時間のすごし方って、やはり周りの評価ではなくて自分の自分への評価が基準じゃないといけない。
じゃないと、何をやってもつまらなくなる。
誰かにアドバイスをもらうことはとても大事だ。それは痛感している。
人の生き方に学ぶことも大切だ。人の話や、本に書いてあることはすべてヒント。
でも、そこに答えを求めたってしょうがないんだ。
最後に自分で一つの考えに辿り着かなければ意味がない。

 だから、大学を出たほうがいいとか、学歴は必要だからとかそういう理由で大学編入試験を受けてもしょうがない。勉強に身が入らないのも、気持ちが散漫になるのも、やりたい!この学校へ行きたい!と思う何かを自分でそこに見出していないから。まず今私がやるべきことはそれだ。
 おそらく、学歴社会でもなんでも、評価されるには理由があるはずだ。
もしかしたら中身のないことなのかもしれないが、中身があるから評価されるのかもしれない。これがいい、と思える気持ちになる努力は必要だと思った。

 そして、これからは何事も周りの評価は参考に、やはり自分で確かめて決めよう。そうすれば誰のせいにもしない。借り物でない、自分の人生が送れる。そしたら後悔なんてないだろう。