風に吹かれてぶらり旅

まっすぐに生きる人が好き

いよいよ夏どす

2006-07-31 21:02:58 | 京都
7月30日、夕方5時頃、京都は西陣の大衆浴場にて「今日近畿地方は梅雨あけを迎えました」

脱衣所のテレビからそんなニュースが流れた。
たまたま旅行先で季節の節目を迎える時に居合わせるなんて、気持ちがいいもんです。「くぅ~っ夏かぁ~っ」てしみじみ今を感じられるし。

そんなわけで昨日は、
泉涌寺(せんにゅうじ)→鈴虫寺→大徳寺方面へ歩き、西陣の銭湯→大徳寺近くのカフェ(閉まってた)→HOTEL

というコースを辿った。
予めコースをきっちり決めてアクセス方法や所要時間を調べてからいけば、無駄はないのだろうけど、それを細かく考えるのが面倒で目的地を決めたら見当で行っていた。

そしたら見事に迷って住宅地をうろうろしていた。
ガイドブックの地図を見ていても行き過たりして。
暑くて参ったものの、知らない所に来て町並みを見るのも小さな発見があり、なかなか楽しかった。

さて、私の聞いた記憶では泉涌寺はなんでも700年間、100年に一度しか門が開かなかったということで、まさに「幽玄の気に満ちている」といった表現がぴたりとくる。また、ここは後鳥羽上皇が仏に帰依した後から皇室の信仰が厚く、四条天皇、また後水尾天皇~孝明天皇までの皇族のお墓があるということで仏殿などのには建物には菊の紋が入っている。

歴史に詳しいわけではないので、細かいことは分からないが、なんというか、
地味だけどシンプルで品格を感じる場所だ。
空気が現代ではない感じ…
また、仏殿の天井には八方睨みの龍で有名な
狩野探幽の龍の水墨画が付けられており、神秘的な空間だった。

更にこのお寺には楊貴妃の観音像がある。
これも昔は天皇の命令で100年に1度しか公開されなかったらしく、
このことをお寺の職員さんがしきりに繰り返していた。
また、楊貴妃は中国の玄宗皇帝の妃であり絶世の美女とうたわれたことから
この観音様には美人、良縁のお祈りをするらしい。

さて、炎天下の中、歩きとバスで鈴虫寺へ向かった。

ここは鈴虫と名のつく通り、鈴虫が一年中鳴いているお寺なのだが、
メインはお地蔵様だ。ここのお地蔵様は願い事を一つだけ必ず叶えてくれるのだ。
しかもわらじを履いているので、こちらから何度もお参りしなくてもお地蔵様の方から
願いを叶える為にわざわざ出向いてくれるのだ。
なのでお参りするときにお守りを持って住所と名前をしっかり言わなければならないらしい。

 そしてこのお参りの仕方やお守りの説明をしてくれるお坊さんの話がまた面白い。
2月のブログにも鈴虫寺に行ったと書いてあるかと思うのだが、
前回も話を聞いてお守りを買い、お願い事をした。
その時のお坊さんとは違う人だったので、この人の語りの腕は前のお坊さんを越えるのか?と
少し不安だったがそのお坊さんらしいまた違った味の語りだったのでほっとした。
中でも印象に残ったのは
「最近年配の人で神社仏閣やここのお地蔵様の前でも、
手をあわせてお参りするという人が減ってる少なくなっている。
お寺は本来参拝し、礼拝する場所なのだから、皆さんも黙ってただ眺めて
写真だけ撮ってただの観光客になってしまうのではなく、せっかくいらしたんなら
どうぞ手合わせて拝んでいって下さい」

私はこれを聞いて確かに観光旅行と旅行は違うのだと思った。
お寺などへは、本来は信仰心を持っていく所なのに、
うわさで聞く建物や美術品をみて、
「ふーん、これがあの○○寺、へぇ~、すごい立派」で終わってしまう
人も多いのではないのだろうか。
要するに京都へ行っただけで、そこになぜそのような建物が建っているのか、
深く感じ入る人が少ないんではないかということだ。
もっと言えば、「観光」の字のごとく、光の部分を観る、つまり
きらびやかで美しい「表」だけ、おいしいところだけを観て、その場所を知った、
世界が広がった気になってる人、増えていませんか?ということだ。

そういう私も何となくで行っている独りであった。
でもまるでスタンプラリーのようにとりあえず見た、っていう見方はしない。
そういえば・・・4月に桜を見に行った時にそういう見方をしてすごく疲れた。
だから何か心で感じとりたいと思って行く。
観光バスツアーなどの団体をみかけるとつい、
ツアーで回って面白いのかなぁ…と思ってしまう。
だって、集団で行動して、自分がここいいなぁと思って時間をかけてみたいと
思っても「はい皆さんそろそろバスへ~」って言われちゃんでしょ?
そんなのつまらない。
私だったら周りのことを気にしちゃって見入ることに集中できないなぁ。

大切なことは感じること、それを表現することなのではないかと思う。
何百年も昔にここに権力のある人物が建物を建て、そこで歴史的な出来事が起こった
そういうことに思いを馳せたり、ここで何を思ったのか、
自分が見ている風景は昔はどんな風だったのかとか、そういうことを考えたり、
仏像の顔を見てなんておだやかな顔なんだろうと思ったり、

ここに来て素晴らしい風景に出会えたことへの感謝、敬意、祈りそんな態度が
合掌する姿となって表現されること、そういうことが大事なのではないかと思う。
まずそこに建物ありきでも、人ありきでもなく、心ありきなのではないだろうか。
私も自分の今までの旅を振り返る機会となった。

ちなみに前回の願い事は、叶ったので御礼参りをし、お守りをお返しした。
そうすればまた一つだけ新たに願いを叶えてくれるのだ。
特に特定の主義・思想、宗教を信じているわけではないけれど、
神や仏の存在については私は信じている。
だって、じゃなきゃお盆とかお墓参りとか、そいういう行事に参加してること自体、
説明つかないでしょ?
何も考えずに参加していることは、自ら心を空っぽにしているようなものだと思う。
その事の重大さは普段は気が付かないけれど、実はかなりの問題なのではないか。
形のあるものが全てという世の中になってしまうのではないか。
私は形のないものの方が重要で長く人の心に残り、つづいていくものだと思う。
だから祈り、願い、神社やお寺へ行きたいと思うし、そういう場所を大事にしている
京都が好きなのだ。

その後は冒頭にも書いた通り、銭湯へ。
それから2月に行った大徳寺近くにあるカフェへ寄ろうと思ったら
18:00で閉店となっており、入れなかった…
また次回行こうと思う。

昨日は移動で電車に1回、バスに5回乗ったのだけどバスではほぼ寝ていた。
やはり夏に街中を動き回るのは疲れる。背中に汗がたら~っとつたうのがわかるし、
拭いても拭いても汗がでる。
暑いからコンビニへ入り冷たい飲み物を買って出るとその温度差にやられる。
まだわりと爽やかなのでげんなりという感じではないが、
やはり夏は外に出るなら午前中と夕方にゆっくり散歩などするのがよい。

また、京都の街で着物や浴衣を綺麗に来てる人と
すれちがったり見かけたりした時に「涼」を感じた。
着ている方は暑いのだろうけど、見ている方は気持ちがいい。

どうせ暑いなら、よれたTシャツに短パンにビーサンで人々が闊歩する風景より、
凛とした姿で人々が歩く風景の方がよっぽど情緒があり涼しく感じるのではないかと思った。

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