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活字日記

毎日読んだ活字系(雑誌、本、新聞、冊子)を可能な限りレポートします。

【7月27日】

2024-07-27 | 文庫

川路聖謨の一代記を読み終えました。幕末は幕府が家柄などに構わず有能な人材を登用して異国来襲に対応していきました。川路聖謨もまさにその一人で、田舎の代官所小吏の家柄出身でありながら最終的には勘定奉行の筆頭という現代なら財務事務次官という官僚トップにまで上り詰めました。逆に言えば幕閣はそこまで人材に対して柔軟だったわけです。日露和親条約、日米通商条約などに関わり、ディアナ号遭難事件にも出くわしながら、難局を乗り越えました。徳川慶喜が江戸城を出て上野の山に蟄居したのをみて、(中風で半身不随となった身でありながら)切腹と銃による自殺を遂げました。いわば日本史を動かしたというよりも日本史が動くのを陰で支えたという人物でした。幕末をこの観点で読むというのも面白かったです。久しぶりの吉村昭の歴史小説でした。

「新装版 落日の宴 勘定奉行川路聖謨 下巻」吉村昭 講談社文庫電子版
 

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【7月26日】

2024-07-26 | 文庫

吉村昭の川路聖謨の外交譚は下巻の半分まで進みました。ロシアのプチャーチンの乗ったディアナ号下田遭難事故は西伊豆の戸田で西洋式小型艇の建造が進みました。その最中に欧州で起きていたクリミア戦争の余波は日本にもおよび、英仏軍艦が日本近海や下田に訪れたりして、英仏と露との戦いも起こるかもということで川路をはじめとする幕府は緊張していました。現実の歴史はそういうこともなかったのですが、当時その場にいた彼らはドキドキはらはらの毎日を送っていたことでしょう。

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【7月23日】

2024-07-23 | 文庫

まだ暗い中をヘッドライトで登山開始。途中、ご来光を見ます。富士山もきれいだし、向かう赤石岳も赤く染まっていました。ところで400mを登り上げるのがけっこう大変でした。頂上では北岳から6日間アルプスをソロ縦走してきましたという女子(20代半ば?)にあって感動もの。クラブツーリズムの団体さんもいましたね。
赤石岳から3000m峰を6座つなぎます。こんなに3000m区間を長く歩けるのはここと北岳辺りだけです。いや歩いたしアップダウンはあったし(登り1400m、下り1400m)、天気が最高だったのが心をつないでくれました。が、こんな高度でちょっと風邪気味だったのが祟って、中耳が詰まる航空性中耳炎を発症してしまいました。よく聞こえん。
今日の小屋は千枚小屋。着いたのが夕飯1時間ちょっと前だったので、ビールを飲みつつ川路聖謨の下巻に取り掛かりましたがあまり進みませんでした。そろそろ足の裏の皮が痛くなってきた。

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【7月22日】

2024-07-22 | 文庫

南アルプスのベース地、椹島から登山開始。ここまで来るのがえらい大変でした。静岡市街から75km。くねくね峠道とやはりくねくね湖畔道をこなさなければなりません。ここから1400mを一気に登って赤石小屋でいったん休みます。お昼には着いて、2500mを抜ける風は爽やかで、明日登る赤石岳もくっきり見えます。夕食と就寝まで長い時間があったので、Kindleで川路聖謨を読んでいました。上巻終了。

 

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【7月20日】

2024-07-20 | 文庫

ペリーが幕府を威嚇して下田と箱館の開港を取っていったあと、ロシアのプチャーチンが再び訪れます。まず大阪湾に姿を見せ、東海道沿いを江戸湾に向かいます。幕府は必死に下田で押しとどめ、ここで川路聖謨もやってきて再び日ロ会談が行われます。1回目が終わって2回目に移ろうというときに、安政の大地震が起きます。これは今危惧されている南海トラフの地震ですね。当然西日本での被害が大きいですが、下田も大津波に襲われ壊滅します。プチャーチンの乗っていたディアナ号は津波に翻弄され竜骨を折ってしまい沈没しないまでも航行不能になってしまいます。このディアナ号遭難の話は有名ですね。

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【7月19日】

2024-07-19 | 文庫

川路聖謨の二日目です。長崎でプチャーチンとの外交交渉が終わって江戸への帰還中、ペリーの二回目になる江戸湾への来航事件が起きました。川路は勘定奉行という高官でありながら、人目のないところでは籠を降りて徒歩で先を進めます。共の者たちの方が参ってしまうほどの強硬軍でした。ペリーは軍事力を背景に強硬に開港を迫ります。そして幕府は下田と箱館の開港を認めるのでした。

 

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【7月18日】

2024-07-18 | 文庫

久しぶりに吉村昭を読み始めました。幕末の幕府の外交を支えた川路聖謨の物語です。落日の宴というタイトルで、ロシアからの使節、プチャーチンと長崎で外交交渉をするところから物語は始まります。幕府(日本)として外交経験が無い中、開国要求を突きつけるロシアを相手に、一歩もひるまずに交渉した川路聖謨は現代の日本外交にも登場してほしいですね。

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【6月11日】

2024-06-11 | 文庫

林芙美子の渡欧は11月から5月までと冬が中心になりました。なので欧州独特の暗い冬を経験したわけです。1か月ほど倫敦にも滞在しましたが、夏目漱石と同じように鬱気味になってしまったのは、霧とこの日照時間にあるのではとも思います。すっかり日本が恋しくなってしまいました。欧州が輝きを取り戻す5月半ばにマルセイユから今度は船でスエズ運河経由、帰国の途に就きます。その後は樺太・道東を旅したり、伊豆の温泉に行ったりしました。樺太の様子はなかなか知ることがないので、この紀行文はとてもためになりました。

「下駄で歩いた巴里」林芙美子 岩波文庫

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【6月10日】

2024-06-10 | 文庫

巴里に着いた林芙美子は8ヶ月ほど滞在します。フランス語は日本で少しかじりましたが、片言の域を越えることはなく、でもなんとかフランス人とコミュニーケーションは取っていたようです。すでに作家として名を成していたので、日本人とも広く付き合えたというのもありました。3回アパートを変えたのですが、日々食事は手製で、フランスパンをかじり、鰯を食べていたようです。そして下駄の歯音を鳴らしながらモンマルトルなどを散歩していました。

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【6月9日】

2024-06-09 | 文庫

林芙美子は昭和6年11月巴里に向かいます。10日に下関を出て釜山に着き、朝鮮半島を縦断して満州鉄道から13日にシベリア(西比利亜)鉄道に入ります。モスクワに20日の夜着。三等寝台では色々な露西亜人に会います。すでにロシアではなくソ連になっていましたが、三等車に集う人は貧し気なプロレタリアートで、共産主義といいながらすでに貧富と階級があったことを看破しています。そしてワルシャワ、ベルリンを経由して23日夜明けに巴里到着です。二週間ほどの汽車の旅でした。約380円かかったといい、現在に換算するとざっと95万円です。現代ではビジネスクラスに乗ってもお釣りが来ますね。よくそんな大金を見た目17歳(とみられていた)の女性が一人、トランクを下げて旅行できたものです。稼いだ印税で家を買うよりも旅に出るという主義で、あちこちを旅行しました。

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