古代史については最近新しい発見があってその見直しが進んでいます。最近発売された岩波書店古代史をひらくシリーズの列島の東西・南北を読み始めました。古代の地域がどうつながっていたのかが書かれています。瀬戸内海の海運はどうだったのか、北陸道はどうだったのか、東国(坂東八州)はどういうつながりがあったのかなどが書かれています。
遣唐使の時代は日中が最も有効的な文化交流をしていた時代でした。今の世は政治や経済という打算を抜きに国同士が交流することは稀になっていますが、当時は本当に日本は中国から文化を得ようと思い、中国はそれに応えようとしていた時代でした。文物の他に仏教も(最澄や空海を嚆矢として)日本に伝わりました。さらに人同士の交流の中では男女の交流もあったはずで、多くの混血が生まれたと思われます。実際に史実に記録されている混血の活躍もあります。吉備真備も長い滞在の間にそういうことがあった可能性もいわれています。著者は中国の学者で、中国側から見た遣唐使という日中交流を描いています。
「唐から見た遣唐使」王勇 講談社選書メチエ
遣唐使は遣隋使を含めて古代日本と中国王朝との交流でした。日本史の教科書では誰それが行った、帰ってきたとは書かれていますが、唐の方から見て唐にやってきた日本人使節一行のことはなかなか書かれたものに出会いませんが、唐から見た遣唐使という本がそのあたりについてよく書かれています。
小弓公方の本を読み終えました。副題は戦国北条氏と戦った房総の貴種。とにかく戦国時代というのは内訌(うちわもめ)が実に多いですね。食うか食われるか、下克上の戦国時代は兄弟でも寝首を掻かれる時代です。自分を転覆しようとしていると感じたら即行動して、先に命を奪うというのはしょっちゅうで、信長も政宗も弟を殺していますよね。現代から見れば一族みんなで頑張ればと思いますが、感覚が全く違います。ヒトは有史以来権力のために血を地で争ってきたのですね。足利義明も兄に対する反抗で古河公方に対して小弓公方となるのですが、最後は国府台合戦で古河公方方の北条氏綱に打ち取られます。内房線の八幡宿駅の近郊には義明が一時御所とした場所(現在は八幡宮がある)があったり、墓があったりと郷土史を読むと身近なところにある歴史の面白さに触れることができます。
「小弓公方足利義明」千野原靖方、戎光祥郷土史叢書
先週は戦国の房総の話を読みましたが、そこに出てきた小弓公方が気になって、図書館から本を借りてきました。小弓公方足利義明という本で、戦国北条氏と戦った房総の貴種という副題です。小弓というのは現在の京葉線の終点蘇我駅の南方向にあった地名で、今はおゆみ野、生実という地名で残っています。城跡は宅地開発で発掘作業後壊されてしまいました。ここに、16世紀中葉に古河公方足利高基の弟、足利義明が小弓公方として対立したのです。そして関東をまとめて鎌倉公方に成り立とうと燃えていました。結論から言えば北条氏に滅ぼされてしまいます。ところがこの義明の孫は生き延び、古河公方と血を一つにして、徳川家康にその貴種性で取り立てられ(なんといっても足利尊氏=源氏の流れですから)、喜連川藩を起こしたのです。5000石でありながら10万石格というのも凄いですよね(そのため色々と苦労したようですが)。ということでとても興味深い流れなのです。
戦国の房総と北条氏を読了。この本は岩田書院というところが出していますが、マンションの一室で社長一人で全てをこなしている出版社です。日本史中堅どころの研究者の成果を本にしている会社です。書籍が売れなくなって、こういう学術系の本はますます苦しいですね。社長も歳を取ったので、在庫を(処分価格で)処分して、倉庫費用を抑えつつ今しばらく頑張るというところだそうです。
城取合戦と内訌に明け暮れた上総と下総東部の国衆達は、北条氏と里見氏が手打ちをしたことで、北条氏傘下に入ることでつかの間の平和を得るところとなります。しかし、秀吉の小田原攻めで全ての国衆は敗者となり、領地は(徳川に)召し上げとなりました。多くの国衆は土豪というよりもそれなりの家系を持っていたので、一部ですが後に徳川旗本として家は残ったようです。最後に、家康が江戸に移ってきたのは秀吉の命によりますが、単に大坂から遠ざけたのではなく、家康が北条を(戦なしに)秀吉への服属させることを失敗したことへの落とし前だったと書いてありました。おまけに関東の収穫時期で戦争によりほとんど収穫が無いことも一緒だったとか。家康に冷や飯を一杯食べさせたということだったのです。
「戦国の房総と北条氏」黒田基樹 岩田書院
戦国時代(概ね天文年間)の房総半島での大名、国衆達の動きの話は、あちらの陣営に付いたりこちらの陣営に付いたり、かと思えば一族の内訌があったりで、房総だけの話ではないのですが、目まぐるしく動きます。あちらこちらに城跡がありますが、江戸時代のものはわかるのですが戦国時代のものはほとんど知らなかったので、これはこういう流れで在った城なのかと改めて勉強になります。
地元の地誌という感じで戦国の房総と北条氏を読んでいます。不明を恥じるのですが、下総の千葉氏、安房の里見氏は知っていましたが、上総にいたのはだれなのかというのを知りませんでした。甲斐武田の庶流である真里谷武田氏と庁南武田氏なのですね。両家とも甲斐武田から鎌倉公方の重鎮としていたのですが、鎌倉府が永享の乱で衰亡したことで古河公方に認められ上総に移ってきたのだそうです。その後小弓(おゆみ)公方を立てて房総支配を目指しましたが、真里谷武田氏はその後衰えていきます。一方庁南武田氏は戦国時代にふるいませんでしたが、上総に根を下ろし、医術で生き残り、現代も甲斐武田の父系男系を唯一保った(甲斐武田氏の祖から32代目)家が病院などを経営しているそうです。千葉って武田だったんだあと思いました。
歴史の本をよく読みますが、信長がどうした秀吉がどうしたという歴史ものはこの頃読まず、戦国以前の細かな話を図書館で拾うようにしています。戦国時代までは守護大名(県知事)の下に国衆という現在の市長レベルがいて、その下に土豪がいました。大名は国衆をまとめないと両国経営ができません。住んでいる千葉県は安房、上総、下総の三国がありますが、守護大名はいなくて相模、武蔵を根城とする北条氏を巨魁とし、下総の千葉氏、上総の武田氏(甲斐武田の一族)、安房の里見氏が領地を安堵してもらったり、背後についてもらったりしていました。ただ里見氏は北条氏とやりあう仲でしたね。一口に千葉氏と言っても、頼朝の頃の千葉氏からどんどん庶流が出て、千葉氏と名乗らないケースもあり、誰だどうだかわからなくなります(名前に胤が付くとそうかなと思います)。専門家は古文書を掘り出して系図を作り、発給文書から流れを掴むのですが、今読み始めたのは戦国の房総と北条氏という本。地味な本で店頭では手に入りません。アマゾンかネットで直買いです。
最近は新聞もテレビのニュースも見ず、情報はSNSからという人が多くなっています。いわゆるオールドメディアは、かつては真実の報道ということに使命を感じていたはずですが(現場は今でもそうかもしれませんが)、下から上へ原稿が上がる段階で取捨選択され、色付けされているので、SNSのほうが素の情報という感じも受けます。でもSNSはフェイクも多く、受け取る側のリテラシーが求められます。特に災害時は情報が混乱することから、SNSを拠り所にする人も多いので、ここにデマ情報が流されると一気に広がってしまいます。デマは人類の発展と共に存在していたはずで、古代も現代も同じです。人間心理を突いているのですね。「本当のSOS」を埋もれさせないために何ができるのかという観点で、NHKのキャスターから転身し、自らの報道チャネルを運営している氏の活躍がわかる本です。
「災害とデマ」堀潤 インターナショナル新書