朝ランをしていましたら転倒してしまいまして、左肩甲骨をバキバキに折ってしまい、明日は再建手術となってしまいました。左手がいうことをきかず、時折骨が皮下神経を触るので激痛があって、やれやれな1日でした。図説室町幕府をトボトボと読んでいました。明日は全身麻酔をかけたあと、ぼーっとしていなくてはならないでしょう。
朝ランをしていましたら転倒してしまいまして、左肩甲骨をバキバキに折ってしまい、明日は再建手術となってしまいました。左手がいうことをきかず、時折骨が皮下神経を触るので激痛があって、やれやれな1日でした。図説室町幕府をトボトボと読んでいました。明日は全身麻酔をかけたあと、ぼーっとしていなくてはならないでしょう。
日本史づいていまして、図説室町幕府なる本を読んでいます。室町幕府というのは南北朝の延長にあって応仁の乱などはありますが、日本史でも地味なところですよね。この時代は日本文化の基礎ができたとは言われていますが、派手さがないので大河にもなりにくいです。このところ鎌倉府、古河公方、千葉氏などの本を読んだので、関東から離れて京の動向をということで読み始めました。
田んぼの苗もここのところだいぶ伸びてきました。現代の稲作は消毒を1回行いますがあとは水管理をしっかりすれば、秋にはお米ができ、田んぼに人が入っているのを見ることは多くないですが、江戸時代は苗作りから田んぼ作りまでとても手間暇がかかって、これから夏を迎えて雑草取りに追われる毎日で、田んぼ漬けでした。農民は休みなく働いていたということがよくわかりました。そして面白かったのが、結髪で、江戸時代の男女は鬢つけ油を塗っているので髪型はいつも整然としているのですが、あまり洗髪をしないので、汗や埃で臭気が漂っていたそうです。それを香料でごまかそうとするので、余計に複雑な悪臭がしたそうです。幕末の京都で新撰組が芸妓を捕らえて取り調べたとき、頭髪の異臭で耐えられなかったという話が残っているそうです。江戸でも御殿女中ですら日々の結髪や化粧はするのに洗髪が少なかったので、大奥は独特の女臭がしたそうです。楽しい本でした。
「大江戸復元図鑑<庶民編>」笹間良彦 遊子館
江戸時代は駅前商店街などはありませんから、日々の食品とか日用品などをお店を探して買うことになります。実際はお店に買いに行くよりも、行商が裏長屋の奥まで売りにくるのを買うのですね。売るものを細分化していて、一人の行商は一つのものを売っているわけで、江戸の町中は行商の売り歩く声で実に賑やかだったのではないかと思います。
時代劇を見ていると、夜暗くなって家に戻ると火打石で行燈に簡単に明かりを灯すシーンがありますが、火打石の火花でそんなに簡単に灯心、ローソクに火がつくものかと不思議に思っていました。そこのところは付木売りという行商が付木を売って歩いていたのです。マッチのようなもので、柿葺き(こけらぶき)の板のような薄い小片の板の先に硫黄が付いていて、火打石の火花をそこに移すと発火して燃え、その炎を行灯などに移して点火したのですね。鋳掛屋というのもあって、鉄・銅の鍋釜類を溶接して修理することも出前でやってくれていたのです。あらゆる行商があって「ちょっと、〇〇屋さーん」と叫べば家にいながらにして用が足せる、現代よりも便利だったかもしれません。
先日、大江戸復元図鑑武士編を読みましたが、今度は庶民編を借りてきました。裏長屋、町奉行、町年寄などの話から始まりました。作者の画がわかりやすくて面白いのがこの本の特徴です。
千葉一族の歴史を読了です。著者は高校生の時から千葉氏にハマり在野の研究家として幾星霜という人です。日本中の千葉氏の末裔を訪ね、中国にも行っています。面白かったので千葉市郷土博物館に行ってもっと知りたかったのですが、10月までリニューアル閉館中でした。残念。そういえば江戸東京博物館も長期の閉館中で、オープンは来年とのことです。
「千葉一族の歴史」鈴木佐編著 戎光祥出版
引き続き千葉一族の歴史を読んでいます。千葉県に住んでもいない限り、千葉一族に興味を持つことはないと思うのですが、本当に全国に系譜や伝承が広がっていることがわかります。前5千円札の新渡戸稲造も千葉氏の末裔だそうですよ。
千葉常胤は千葉六党と呼ばれる本宗家と庶流を生みました。本宗家は北条氏についていたので、小田原合戦で秀吉に敗れ滅亡しましたが、三党は大名として残ることができました。一つは名前を伊達と変えて伊達家の重臣として大名になり、一つは相馬中村藩として伊達に対峙しつつ大名となり、一つは東氏の流れをくむ郡上八幡で初代の藩主となった遠藤氏で、藩主の妹は有名な山内一豊の妻となりました。その他には徳川の重鎮土井利勝が佐倉藩主となってから旧千葉氏の一族は仕官がなり、身と徳川家も積極的に千葉氏を引き受けたのですね。
桓武平氏の流れをくむ千葉氏は千葉常胤の時に大きく発展します。常胤は頼朝に大きな信頼を得て父のように慕われたそうです。常胤は多くの庶流を生み、日本各地に領地をもらい、のちにそこに土着するようになります。土着した先でも千葉氏はそれなりに繁栄をして、へえという感じです。
鎌倉時代から戦国時代まで存在感があった千葉氏のことを読んでいます。ずばり、千葉一族の歴史です。千葉氏は桓武平氏の流れで、平姓を桓武天皇からもらった高望王(桓武天皇の孫、または曾孫)は平高望と名乗りました。桓武天皇には大勢の子供がいたので、高望王は将来の出世や収入が望めないと考えて、臣籍降下し関東に下り関東を地盤として栄えたということです。その子は8人兄弟ですが、平良文の流れが千葉氏の流れになります。ちなみに良文の兄である良将は将門の父です。