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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

コード・ブルー 第6話 むき出しの現実

2010年02月16日 | 職業ドラマ
★藍沢(山下智久)も白石(新垣結衣)も<パンドラの箱>を開けてしまった感じですね。
 剥き出しの現実が現れる。
 藍沢は母の自殺とその理由。
 白石は父親の癌。
 今までは父親を避け、恨んでいればよかったふたり。
 しかし今度は自分と向き合わなくてはならなくなった。
 藍沢は、母親が自殺した原因である自分。
 白石は、本当の理由も知らずにただ父親を否定してきた自分。
 白石の方は、何も知らずに否定していた自分が<恥ずかしい>という傷で済みそうだが、藍沢の方は深刻だ。
 何しろ自分の存在の否定。

 剥き出しの現実、自分の本当の姿に向き合うことはつらいことだ。
 責任転嫁したり、別の理由をつけて目を逸らそうとする。
 でも今回のふたつの母子が示したように、現実を受け入れなければ本当に理解し合えないし、前に進めないような気がする。
 受験をする息子は、癌の母親の隠しておきたい気持ちを察しながら本音を言う。
 「発表は1ヶ月後だ。また自慢ができるな。……略……10年経ったら店の近くで開業する。そしたら一生自慢だ。とにかくそれまで生きていてくれ。たまには約束を守ってくれよ」
 現実を知り、共有し合うことで、この母子は理解し合えた。
 幼子の脳死を受け入れられない母親は受け入れることで、子を抱きしめることが出来た。

 藍沢たちはこの剥き出しの現実にどう向き合うか?

★そして緋山(戸田恵梨香)。
 呼吸器を外す同意書にサインを求めなかったことのミス。
 規則や書類は堅苦しくて面倒くさいものですが、実はちゃんと意味があるんですね。
 規則なんかより気持ちの方が大事と思うのはわかりますが、それが分からない人間と遭遇した時はたちまち緋山のような事態に陥る。
 そして日本は法治国家。情や気持ちより法の論理が優先する。
 「特上カバチ!」のように法を盾にお金をむしり取ってやろうという輩が沢山いる。
 これも現実。
 現実というのは厄介ですね。

 でも緋山を始め、藍沢も白石も現実に雄々しく立ち向かっていくのでしょう。 


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龍馬伝 第7回「遙かなるヌーヨーカー」

2010年02月15日 | 大河ドラマ・時代劇
★いい話でした。
 父・八平(児玉清)の死。
 「龍馬が大きくなって帰ってきた。それだけで十分」
 「子の成長がわかるのが親の一番の幸せ」
 またラストの土佐の砂浜。
 黒船に乗って一家で世界を見てまわりたいという龍馬の夢を聞いて
 「お前はそんなことを考えているのか」と穏やかな笑顔。
 八平は満足して死んでいったことでしょう。
 
 龍馬は未来を生きる者。これから人生の大海原に乗り出しいろいろな人に出会い、行動していく。
 一方、八平は死にゆく者。
 この対比も見事。
 龍馬が前を見て希望に溢れているのは若者として当たり前ですが、八平も龍馬の未来に想いを馳せ、明るい気持ちになっているのもいい。

 普通、肉親の死のシーンというと重く、涙のシーンになりがちですが、そうなってないのがいい。
 八平が倒れた後でも明るく一家は黒船談義をしているし、普通の作家が入れたがる息を引き取るシーンもなかった。
 それでいて感動的にドラマを作り上げている。
 これぞ作家の力量!!

★さて、龍馬の成長物語としてのこの作品。
 今回龍馬が何を学んだかというと、八平の言葉。
 「おのれを磨き高めるという気持ちを忘れてはならない」
 「おのれの命を使い切れ」
 いい言葉ですね。
 現在、若者の自殺が多いというが、ぜひ心に留めておいてほしい言葉。
 物事がうまくいかなくて自棄になり、極まると死刑になるために犯罪を犯すようなロスト・ジェレーションにも考えてほしい言葉。

★また今回、<自分探し>をしている龍馬は新たな自分を見出した。
 「黒船を造って何をするか」という父の問いに「世界を見てまわりたい」という答えを出した。
 これが新たな自分。
 自分について結論を出したらさらに考えを深めてみる、こうすることでオンリーワンの自分が生まれる。

 考えてみると人間というのは多種多様で面白いですね。
 <黒船>の来襲という同じ事件に遭遇しても、それぞれリアクションが違う。
 半平太(大森南朋)は攘夷という狂信に取り憑かれる。
 以蔵は「考えるのは武市先生じゃ」と言って考えることを放棄する。
 弥太郎(香川照之)は「そんなことどうでもいい。どうしたら金持ちになれるか」と考える。
 河田小龍(リリー・フランキー)は「黒船の波はどんな波か」を聞きたがる。
 そして龍馬は「黒船を造って、家族を乗せて世界を見てまわる」と考える。
 これが人の個性であり、アイデンティティ。
 そして龍馬の個性は、大きくて明るくてさわやかだ。

★アイデンティティのことで言うと、僕は弥太郎のそれも大好きだ。
 「どうしたら金持ちになれるか」
 実に人間の欲望に素直で気持ちいい。
 半平太が「日本国のため」ときれいごとを言っても、「その中の何%かは自分が受け入れられないことへの怒り、吉田東洋への恨みでしょう」と言いたくなる。
 また弥太郎だが、加尾(広末涼子)にフラれても「土佐のおなごなど相手にせぬ」と言い切れる所がいい。(フラれるシーンでは、弥太郎の曲が流れニワトリがあざ笑うように鳴いていたが)。
 このたくましさ!
 大いに見習いたい。

★最後に小龍が「温かみに満ちている」と評した龍馬の家族について。
 やはり、この温かさが龍馬の人格を作ったんでしょうね。
 以前、<愛情の貯金>ということを書いたが、別の言い方をすれば<愛情の肥料>がいっぱいあったから、龍馬は大きく育つことが出来た。
 小龍が言うとおり、龍馬は「大きな花を咲かせる」ことでしょう。

※追記
 余談ですが、僕は「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンの死のシーンにいつも涙する。
 娘・コゼットの結婚と幸せを祝福し、自らも光に包まれて満足して死んでいく。
 今回の八平さんの死に通じるものがある。


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プリズン・ブレイク ついに最終回!

2010年02月14日 | テレビドラマ(海外)
 「プリズン・ブレイク」をついに最後まで見た。
 なるほど、そう決着をつけましたか。マイケルの鼻血は伏線だったんですね。
 マイケルのメッセージは「自由と愛することがいることの素晴らしさ」。
 これが作品全体を貫くテーマだったんですね。

★「プリズン・ブレイク」の魅力は何と言っても脇役。
 僕はマホーンとティーバッグが好き。

 マホーンはシーズン2ではFBI捜査官。
 マイケルに匹敵する頭脳の持ち主として登場した。まさに最強の敵。
 だが味方になるとこれほど心強いものはない。
 何しろマイケルがもうひとりいるようなものなのだから。
 このマホーンの立ち位置はいいですね。
 ロール・プレイング・ゲームで知力の高い人間が仲間になった感じで、視聴者にワクワク感を抱かせる。
 クスリ中毒や過去の罪のトラウマ、家族といった弱点があるのもいい。
 僕の好きな人物造型です。(逆にマイケルは、後半サラという弱点はありましたが、万能すぎて面白くない)

★そしてティーバッグ。
 声をあてている若本規夫さんはまさに若本節。
 ときどき口パクが合っていなかったし、ともかく自由。完全にこの役で遊んでいらっしゃいましたね。
 役どころとしては、味方にも敵にもなるジョーカーのような役割。
 味方にしていてもいつ裏切るかわからない不安定要素。(「鬼太郎」でいうと、ねずみ男のような存在)
 マホーンのクスリ中毒もそうですが、この不安定要素はドラマでは大切ですね。
 後半マイケルも賢くなって、ティーバッグが裏切ることを前提として作戦を立てるようになりましたが、ティーバッグがいるからドラマが面白くなる。
 また、このティーバッグ、完全な悪でない所もいい。
 サラを撃つことをためらったり、聖書に目覚めて実は敵だったのに聖書売りを信じたりした。
 恵まれない母子にも優しかった。
 彼はマイケル同様、自由と愛がほしかっただけなのかもしれません。
 ただマイケルとやり方が違っていただけ。
 なのでティーバッグのラストシーンは、スタッフの愛情を感じました。
 いずれにしても僕はティーバッグのゴキブリのようなしぶとさは好きです。

 最後に「プリズン・ブレイク」のスタッフ・キャストの皆さん、愉しませていただきありがとうございました。


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寝ずの番~粋で優しい馬鹿でいろ

2010年02月12日 | 邦画
 臨終の噺家・笑満亭橋鶴(長門裕之)。
 橋鶴の最期の望みは「そ○(←女性自身のことらしい)を見たい」。
 そんな師匠の願いをかなえるために右往左往する弟子達。

 坂口安吾が何かのエッセイで「絶望してビルから投身自殺をした人間でも、落ちる途中、ビルの窓から女性のきれいな脚が見えれば心ときめく」といったことを書いていたが、人間とはそういうものなんですね。
 詰まるところは色と恋。
 この橋鶴師匠も同じ。
 死ぬ間際まで女性に執着している。悟りなんか程遠い。
 それが逆に人間っぽい。
 そんな師匠の願いをかなえてあげようとする弟子達も。
 普通なら「何を馬鹿なことを」「いい歳をして」と一笑にふす所だが、彼らは真剣に真面目に何とかしようとする。

 この作品を見て感じることは、<人間なんて愚行を繰り返して死んでいくんですよ><色恋に迷って死んでいくんですよ><それでいいじゃないか>ということ。
 通常、通夜の席で語られるのは「故人はあんなに立派だった」「こんな業績を残した」といったこと。
 だが、主人公達は違う。
 先程のそ○の話や、駅でウンコを漏らした話、行きづりのエッチをしてこんな失敗をしたといった馬鹿話を延々と行う。
 あたかも、そういった馬鹿話がたくさんあることが<人生の勲章>みたいな感じで。

 通夜の席で、その人間がどのように語られるか。
 これがその人間の人生。
 「立派な方でした」と語られるのもいいが、「駅でウンコを漏らした」と笑われたり、「こんな熱い恋愛をした」と語られたりすることの方が、粋でカッコイイ感じがする。

 僕の大好きな桑田佳祐さんの「祭りのあと」でもこんな歌詞がある。
♪野暮でイナたい人生を照れることなく語ろう
 悪さしながら男なら粋で優しい馬鹿でいろ♪

 <悪さする男><粋で優しい馬鹿>……まさにこの作品の主人公たちのことだ。

※追記
 この臨終の「そ○が見たい」下りにはオチがある。
 ネタバレになるので書かないが、自分の人生の最期にオチをつけられるとは、さすが噺家!
 まさに落語のような人生。


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曲げられない女 第5話 友達の作り方がわからない時代

2010年02月11日 | 恋愛ドラマ
・璃子(永作博美)は子供たちのことで悩んでいる。
 夫と姑は顔も見たくないが、子供だけは失いたくない。失えば自分が信じていた<幸せな生活>の拠り所がなくなってしまう。
 だが、子供とどうつき合ったらいいかわからない。
 そんな璃子を評して光輝(谷原章介)は「この人、子供のことになるとこんなに頼りなくなるのか……」

・一方、早紀(菅野美穂)。
 母の辞世「我死すとも、いいとも」のこともあり、<友達>に悩んでいる。
 「友達とは何か?」「友達はどう作ったらいいか?」
 それを璃子の子供に聞いたりして。

★ふたりとも非常に無器用。
 <子供とどうつき合うか><友達をどう作るか>。
 昔の人なら簡単に出来たことに悩んでいる。
 昔の人なら簡単に乗り越えられたことを乗り越えられないでいる。
 これが2010年の日本の社会。
 みんなが孤独で人を求めているのに、どう関係を結んでいいのかがわからない。

★さて、今回のドラマ。
 これは連立方程式ですね。
・璃子の子供の問題。
・早紀の友達の問題。
 このふたつの問題をどう一度に解決するか。

 今までの通常のドラマだと、璃子の子供の問題を解決するために早紀が奮闘するというものになるのだろうが、このドラマでは早紀は璃子の子供の問題が気になりつつも、<友達>の問題に悩んでいる。
 そして今回、その連立方程式は解けた。
 早紀は璃子に言う。
「私はさあ、蓮美のこと、友達だと思ってるんだけど、ダメかな」
「もういい加減、逃げるのやめたら?」
「あなたの人生に嘘や誤魔化しは必要ありません」

 <自分も友達として真っ正面から璃子に向き合っているのだから、璃子も逃げずに子供達と向き合え>という答え。
 これで方程式は解けた。
 実に見事な作劇。

★それにしても人が人に真っ正面から向き合うのって、なかなか難しい。
 「お腹を痛めたことのない早紀に何がわかるのよ」と言われてしまえば、それまでだし、「自分はこの人と友達なのだろうか、この人の心に踏み込むほど親しいのだろうか」という迷いもある。
 みんな、それぞれ、心に防御のシャッターを作っている。
 そんな防御のシャッターを開けるには?

 今回ラストの光輝のやり方は有効だ。
 <友達>として、いっしょにチラシを配ってあげる。
 <相手の望んでいること、考えていることを理解し、行動で示してあげる>。
 言葉はいろいろ誤解を生みますからね。
 今回の早紀ぐらい、自分を振り絞った必死の言葉でないと反発され、怒りさえ生む。
 「今まで誰も好きになったことのない俺が初めて人を好きになった。荻原が好きだ」より「友達だからいっしょに配ってやるよ」の方が心に染み入る。

 本当に難しいですね、人間関係は。


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空飛ぶ馬 北村薫~ファンタジックな現実

2010年02月10日 | 短編小説
 日常で起こる何気ない出来事の謎を解き明かしていく北村薫さんの落語家・円紫さんシリーズ。
 そのミステリーパートも魅力だが、主人公の女子大生の人物造型も読む者を引き込む。

 「空飛ぶ馬」では、主人公はこんな童話談義をする。
 
「あたし、子供の時、アンデルセンって大嫌いだったんだ。『みにくいあひるの子』が白鳥になるなんて許せなかったのよ。それだったら何の苦しみもありゃあしない。あたしはあのあひるの子はどこかで泥まみれになって野垂れ死にしたって思うのよ。その死ぬ間際に見た夢が、最後の白鳥になる部分。あれは、ただ一瞬の幻想なのね」
 主人公の友人・正ちゃんの言葉。何とも現実的だ。
 これに対して、口を挟む気になった主人公はこんな童話体験を話す。
「頭に残ってる話なら、私にもあるわ。小川未明の短い話。題は忘れちゃったけど、子供が綺麗な鳥を採ろうとして木に登るのよ。鳥は結局採れないで、<美>というか<夢>というか、とにかくそれを求めたためにその子は木から落ちて一生腕だか脚だか動かなくなるの。童話でそういうのってないでしょう。ぎょっとしちゃった。ちょっと忘れられないわよ」

 現実とはこの小川未明の童話のようなものかもしれない。
 大人になろうとしている主人公はそんなふうに思っている。
 だが、一方でこんなふうにも現実を見ている。
 ある時、ご近所のトコちゃんという幼稚園児のクリスマス会のビデオ撮影を頼まれる主人公。
 トコちゃんの通う幼稚園は主人公もかつて通っていた所だ。
 久しぶりに母校の幼稚園に入って主人公はこんなふうな感想を持つ。

「幼児の頃はもうはるかに遠い昔で、大袈裟に言えば私にとって飛鳥時代も同様である。それなのに建物は昔のままであり、ジャングルジムなどの遊び道具も配置こそ変わっているが、中には残っているものがある。ただ総てが魔法の薬でもかけたように小さくなっていた」

 ここで面白いのは<魔法の薬でもかけたように小さくなっていた>と主人公が感想を抱く所だ。
 あるいは主人公はクリスマスの飾りつけをした幼稚園の部屋を見て空想の中でタイムスリップする。

「思いは瞬時に十数年の時を越えた。秘密めいたその部屋の、真ん中に仕切られたアコーディオン・カーテンの向こうに胸をときめかせた子供達がいた。くすくすと興奮のあまり笑い出しそうになっているのは男の子より強いみさちゃんだ。風邪気味のよっちゃんはコンコンとせきをしている。おしゃれなまきちゃんは靴下や襟元を気にしている。けいちゃんは太鼓のばちでポンポンと肩をたたいている。そして、列のはじっこに唇をきゅっと結んだ無口な女の子がうつむいている」

 主人公はこんなふうにファンタジックな日常を生きている。(ちなみに<列のはじっこに唇をきゅっと結んだ無口な女の子>とは主人公のことだ)
 実に魅力的な主人公だ。
 彼女のファンタジックな日常はラストのこんな描写にも現れる。
 それは謎が解明されて帰宅する途中、牡丹雪が降ってきた時のこと。

「勤め人風の人がコートの襟を立てて速足に過ぎていく。明日は一面の銀世界となるのかもしれない。私は手を上げ、白い踊り子を再び宙に舞わせた。そして思った。人は誰も、それぞれの人生という馬を駆る。私の馬よ。その瞳よ、たてがみと、蹄よ。素直に、愛しく幻想を抱くことが出来た。私が生まれたのは真夜中近くだったという。家に着くのがちょうどその頃だろうか。今夜は丁寧に髪を洗おう。いよいよ数を増す白銀の天の使いに、私はそっと呼びかけた。それまでは、雪よ、私の髪を飾れ」

 何という豊かな感性。
 牡丹雪が降る現実世界が、主人公の目にはこう見えている。
 こういう表現に触れるとワクワクしてくる。
 これが小説を読む愉しみだ。


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コード・ブルー 第5話 せりふの描き分け

2010年02月09日 | 職業ドラマ
★事故で運ばれた少女にとってのぬいぐるみがそうであったように、人には自分のそばにいてくれる誰かが必要なんですね。
 今回はぬいぐるみがそれをうまく象徴している。

★あとは藍沢(山下智久)、緋山(戸田恵梨香)、白石(新垣結衣)のせりふ。
 まずは藍沢。
 田沢悟史(平山浩行)の解剖を継げることをためらう白石に。
 「俺が死んだら解剖を望むぜ」
 死んだ田沢に劣等感を抱き、自分には人望がなく葬式にもあんなに来てくれないと嘆く藤川(浅利陽介)に。
 「俺は行くぜ。お前の葬式に」
 他人との距離を置き、壁を作る藍沢らしいせりふ。
 言葉は少ないが、相手の気持ちを理解して一番言ってほしいことを言う。
 このキャラクター造型はいいですね。

 緋山も藍沢と似ている。
 田沢を失って「自分には必要としてくれる人がいなくなった」とつぶやくはるか(比嘉愛未)をヘリに乗せてこう言う。
 「ここに座ると、あんたの顔が見える。その顔見るとあたしがどれだけ安心するか。あたしがフライトでいい成績を取るためにも、あんたにここに座ってほしい」
 ポイントは<あたしがフライトでいい成績を取るために>。
 こういうふうに<偽悪>ぶることが緋山のキャラ。
 心を開かずそっけない藍沢と偽悪家の緋山。
 しかし、心の中は熱い。

 一方、このふたりと比べてストレートなのが白石。
 同じヘリのシーンではるかにこう言う。
 「必要なの、あなたが。あなたも光なの、わたしたちの」
 屈折していないんですね、白石は。

 三人三様。「コード・ブルー」の人物たちのせりふは見事に描き分けられている。

※追記
 藍沢も子供には心を開くようだ。
 ぬいぐるみを手放すことを子供目線で見事に説得している。
 おまけにぬいぐるみに包帯を巻いたりして。
 一方、子供の説得が出来なかったのが白石だ。
 子供目線になかなか立てない白石。
 こういう描き分けも面白い。


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龍馬伝 第6回「松陰はどこだ?」

2010年02月08日 | 大河ドラマ・時代劇
 剣で黒船に勝てるかどうかは問題じゃない。坂本龍馬という人間の問題だ。

 そうなんですね、戦うのは<人間>なんですね。
 剣は戦うための武器であり、手段でしかない。
 蘭学もそう。オランダ語を話せれば外国人と交渉できるし、オランダの書物を読んで大砲や蒸気船を作ることも出来る。
 要はその人間が何を考え、どう行動するか。
 たとえば、剣を磨いて外国人を斬る攘夷のために使う人間もいるだろう。
 だが、一方で剣を磨いて人格を高め、外国人と理解し合おうとする人間もいる。
 要は<自分>。

 そのことを龍馬(福山雅治)は吉田松陰(生瀬勝久)から学んだ。
 松陰は「剣で黒船に勝てるか」なんてことに悩まない。剣などというものにとらわれていない。
 あくまで<自分>の思いとして<黒船>に向き合っている。
 松陰は今まで生きてきた自分の経験、知識から「黒船に乗ってアメリカに行きたい」という結論を出したのだろう。
 そこに<武士だから><長州藩士だから>というとらわれはない。
 松陰は龍馬に「考えるな。自分の心を見ろ」と言ったが、考えてしまうと「武士だから」「長州藩士だから」「家族がいるから」「友人が非難するから」「罪人になってしまうから」といった言い訳がついてまわってしまう。
 松陰が「自分には何の言い訳もない」と言ったのは、そのためだ。
 純粋にアメリカに行きたいと思ったから松陰はそうしているだけ。
 そして、剣や学問を学ぶことは、判断し結論を出す<自分>、とらわれのない<自分>を作るためにある。

 人間、最終的には、こういう境地に行きたいですね。凡人にはなかなか難しいですが。
 「震えるほどの歓びを感じる」と松陰は言ったが、何のとらわれのなく、自分の心のおもむくままに歩んでいく。
 判断基準はワクワク、ドキドキするかどうか。
 そう行動することで、自分の心が歓ぶかどうか。
 松陰はそんな子供のような人物だったのでしょう。
 そして龍馬も。
 こういう人達を世の常識人は<おバカさん>と呼びますが。(実際、劇中でも松陰は笑われていた)

 一方、それと対照的なのが半平太(大森南朋)。
 あくまで土佐藩にこだわり、とらわれている。
 武士の生き様や仲間に一目置かれることにとらわれている。
 こういう人は出世すれば、栄達を極め尊敬され、<おバカさん>とは正反対の人物になりますが、もし挫折すれば……。
 あるいは既に半平太がそうであるように<怒り>や<憎しみ>の中で生きていくことになる。

 さて、このふたつの生き方を見て、われわれはどう生きるか?


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猟奇的な彼女

2010年02月07日 | 洋画
 <前半戦><後半戦><延長戦>という三部構成で描かれる物語。

★<前半戦>では、主人公のトロくさいキョヌ(チャ・テヒョン)が、猟奇的な彼女(チョン・ジヒョン)の被害に遭うエピソードがひたすら描かれる。
・酒に酔った彼女のゲロ。
・酔って意識のない彼女を善意でホテルに運んでいったら痴漢だと勘違いされて留置場に。
・喫茶店では当然おごりで、キョヌがコーラを注文しようとするとコーヒーを飲むように強制される。
・映像作家志望の彼女の書いたシナリオはほめなくては殴られる。
・つき合って百日目には一本のバラを持って祝いに来なければならない。
・電車で通行人が線を右足でまたぐか左足でまたぐかの賭けになり、兵隊がなぜが行進してやってきて、連続して殴られる。
・夜中の遊園地では銃を持った脱走兵の人質になってしまう。など。

 ともかくわがままで乱暴な彼女のせいで、キョヌはひどいめに遭う。
 そして、これだけだと惚れたよしみで<彼女に献身的に尽くすモテない男の物語>になってしまう。

 だが、<後半戦>以降、物語はガラリと雰囲気を変える。
 彼女が「なぜそんなにわがままで暴力を振るうのか」が明らかにされるのだ。(以下、ネタバレ)

 彼女がわがままを言う理由。
 それは彼女がキョヌを死んだ元彼と重ね合わせようとしていたから。
 元彼とキョヌは顔立ちが似ていた。
 そして、元彼は<コーヒーしか飲まず><つき合って百日目にはバラの花を一本持って祝ってくれた>。
 彼女は同じことをさせることで、キョヌに死んだ元彼を見ていたのだ。
 こうした彼女の内面が明らかにされると、観客は単なる<わがままで乱暴な女>から<感情移入できる女>に変わる。
 キョヌを元彼の代用品にしていることに悩み苦しむ彼女の葛藤が伝わってくる。
 これがドラマになる瞬間だ。
 <彼女は元彼を清算して、キョヌと本当の恋人どうしになれるのか>というドラマが浮かび上がってくる。
 彼女が<コーヒーしか飲ませないこと><百日目にバラを持ってくることを強制すること>に別の意味が出て来る。
 これが、この作品の脚本の見事なところ。 

★その他にもこの作品には見事なシーンがたくさんある。
 キョヌが自ら身を退いて、彼女のお見合い相手の男に語る言葉なんかはグッと来る。
 キョヌは、これから共に人生を歩んでいくかもしれないお見合い相手に教訓としてこう言うのだ。
 「彼女に女らしさを期待してはいけません。留置場に行くことを覚悟して下さい。お酒は3杯まで。つき合って百日目にはバラの花を。喫茶店ではコーヒーを。彼女の書いたシナリオはどんなにつまらなくてもほめてあげて下さい」
 彼女の幸せを願うキョヌの思いが伝わってくる。

★韓流作品には、どれもあざとい位の物語性がある。
 この点、「博士の愛した数式」「歩いても歩いても」といった大きなドラマもなく日常を淡々と描く日本映画と大きく違う。
 どちらがいいかは観る者の好み。
 極彩色の絵画を好むか、黒白の水墨画を好むか。フルコースのこってりした西洋料理を食べるか、精進料理を食べるかの違いである。
 そして忘れてならないのが、西洋料理にも精進料理にも一流、二流、三流があるということ。
 こう考えると作品を愉しむというのは実に豊かなことですね。


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アキレスと亀 人生の理解者・同行者

2010年02月05日 | 邦画
 人生にはたったひとりの理解者・同行者がいればいい。
 そんな映画。

 主人公は売れない画家の真知寿。
 絵を描く事以外、何もできない男。
 裕福な家に生まれた生い立ちもあり、世間の常識からかけ離れた男。

 もっとも<世間の常識>とは何であろう?
 大多数の人間がそうしているから、それが当たり前と信じられているだけのもの。
 たとえば絵は絵筆を使って描く。
 果たして、それは本当か?
 ペンキを持って自動車で壁に激突して描かれる絵もあるし、死んだ娘の顔に絵の具を塗って布で被せて描かれる絵もある。
 絵は絵であり、描く方法が違うだけ。
 常識から外れた方法で絵を描いている真知寿は、世間から<変人><頭がおかしい><非常識>と見られるが、本人はただ自分の追い求める絵を描いているだけ。
 普通の人間なら、常識から外れた方法で絵を描くことをためらったり、何十年やっても売れなければやめてしまう所だが、真知寿はあくまで絵を描くことにこだわる。
 描かずにはいられないし、その他のことも出来ない。
 やめて他のことをやれば、自分が自分でなくなってしまうだけ。
 <天才>とはそういうものである。

 そして、天才の作品がなかなか世に受け入れられないのは、それが非常識の産物であるから。
 常識にとらわれて安穏としている人間が非常識なものなど理解できるわけがない。
 真知寿の子供の頃描いた絵や初期の絵はまだ常識の範疇だから、まだ世の中に受け入れられる。(劇中には初期の絵が店に飾られているというシーンがある)
 だが、真知寿はどんどん最先端を走っていき、理解不能の常識にとらわれた人間が眉をしかめる作品になっていく。
 この作品では、こうした<絵画論><天才論>が描かれている。

 さて、タイトルの「アキレスと亀」とは何を意味するのだろう。(以下、ネタバレ)
 ラストは「亀はついにアキレスに追いついた」で終わる。
 つまり……
 アキレスとは、芸術の最先端を走る真知寿のこと。
 亀は世間一般、そして真知寿の妻のこと。
 少なくとも妻は真知寿の芸術を理解しようし、ラストで真知寿と真知寿の芸術に追いついたのだ。

 ラストのふたりで歩いていくシーンはチャップリンの「モダンタイムズ」のオマージュか?
 人生にはたったひとりの理解者・同行者がいればいい。
 もっとも、たったひとりの理解者・同行者を見つけることは非常に難しく、奇跡に近いのだが。
 劇中、妻がなぜ真知寿を好きになり、苦労させられてもついていこうとするのか具体的に描かれないが、それは北野武監督が<理解者・同行者に出会うこと>は現実ではほとんど不可能であり、ファンタジーの世界でしかあり得ないと考えているからかもしれない。


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