平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

平清盛 第48回「幻の都」~運が尽きた。天が平家を見放したのじゃ

2012年12月10日 | 大河ドラマ・時代劇
 還都、幻の都・福原……。
 清盛(松山ケンイチ)にとっては、これまでの人生の全否定であったことだろう。
 だからこうつぶやく。
「何をしてきたのかと思うてな、この何十年……」
 諸行無常……。
 しかし、この作品は『平家物語』の世界に留まらない。
 清盛の生涯を、武士の世が誕生するまでの前段階として描いている。
 清盛のやって来たことは、頼朝(岡田将生)に引き継がれる。
 武士の世は頼朝によって完成される。
 だから頼朝は語る。
「父(義朝)の道とあの方(清盛)の道を私がひとつにまとめる」
 清盛の生涯は決して無益なものではなかったのだ。
 今後、これが作品の中でどう描かれるか?

 東大寺を焼いた重衡(辻本祐樹)の発言に対する清盛の言葉は興味深い。
「ようやった。ようやった……」
 これは単に諦念や絶望から発せられた言葉ではない。
 半分、「ようやった」と本気で思っている。
 なぜなら若き日の清盛なら重衡と同じことをし、言ったと思うから。
 清盛の場合は、神輿に弓を射ったこと。
 重衡の行為、清盛の行為、いずれも<権威の否定>という点で同じだ。
 神や仏の権威を笠に着て暴れまわる輩(やから)を退治しただけ。
 清盛と重衡の行為には相通じるものがある。
 だから清盛は「ようやった」とほめた。
 ただ、この「ようやった」は以前のような高らかなものではない。
 清盛が若く気力にあふれていたら、重衡の行為を力で正当化し、批判をねじ伏せただろう。
 時間をかけて失地回復したであろう。
 しかし、清盛にはそれをする気力も時間も残されていない。
 だから、今回の「ようやった」はあんなに朦朧とした、力のないものになってしまった。
 あるいは、この「ようやった」の言葉の背景には、忠盛(中井貴一)のこともあったかもしれない。
 父・忠盛も清盛が神輿に弓を射った時、責めることをしなかった。むしろ守った。
 神輿や鳥羽院(三上博史)といった権威に弓を射ることこそ、武士の世を作るために必要なことだと忠盛は信じていたから。

 この作品には<父親>というサブテーマがある。
 清盛のふたりの父、白河院(伊東四朗)と忠盛。
 頼朝にもふたりの父親がいる。
 実父・義朝(玉木宏)と武士の世を作るお手本を見せてくれた清盛。
 近くにいた清盛の息子たちが清盛から何も学ばず、遠く離れていた頼朝が多くの影響を受けていたというのが何とも皮肉である。

 最後に盛国(上川隆也)が忠清(藤本隆宏)に語ったせりふ。
「平家の武の軸は忠清殿、そなたじゃ」
「生きて平家を、殿をお守りいたそうぞ」
 平家を守り支えてきた老臣はもはやこのふたりしかいない。


コメント (4)
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