第8章において、パウロは、御霊にある命についてのポジティブな側面を、詳細に我々に提示している。
「それ故、いまや罪はない」
このみことばがここにあるのは場違いではないかと最初に見た時にはそう思われた。
確かに、神との平安と怒りからの解放を得るための主の血潮によって罪は弁済された(ローマ5:1、9)。
罪には2種類ある。
つまり、神の御前にある罪と自分の目の前にある罪のふたつ(ちょうど平安が2種類あるように)。
自分の目の前にある罪は、神の御前にある罪よりもはるかにおぞましい場合がある。
キリストの血潮が神を満足させているのを見る時、私の罪は赦され、もはや神の御前で罪がないことを知る。
しかし、私にはいまだに欠落があることを知っている。
ローマ書7章に示されているように、このことを説明できる内なる罪の感覚が実にリアルに迫ってくる。
しかし、我が命であるキリストによって生きることを知った時、勝利の秘訣を心底知ることになる。
主を賛美せよ。
「それ故、いまや罪はない」
「霊の思いは命と平安」(ローマ8:6)
御霊の中で歩む時、このことが私の経験となる。
心の中に平安が満ちる時、私は罪に定められているという感覚を失う。
そして、心の中に平安が溢れるのは、勝利から勝利へと導いて下さる主イエスを賛美している時だ。
「それ故、いまや罪はない」
このみことばがここにあるのは場違いではないかと最初に見た時にはそう思われた。
確かに、神との平安と怒りからの解放を得るための主の血潮によって罪は弁済された(ローマ5:1、9)。
罪には2種類ある。
つまり、神の御前にある罪と自分の目の前にある罪のふたつ(ちょうど平安が2種類あるように)。
自分の目の前にある罪は、神の御前にある罪よりもはるかにおぞましい場合がある。
キリストの血潮が神を満足させているのを見る時、私の罪は赦され、もはや神の御前で罪がないことを知る。
しかし、私にはいまだに欠落があることを知っている。
ローマ書7章に示されているように、このことを説明できる内なる罪の感覚が実にリアルに迫ってくる。
しかし、我が命であるキリストによって生きることを知った時、勝利の秘訣を心底知ることになる。
主を賛美せよ。
「それ故、いまや罪はない」
「霊の思いは命と平安」(ローマ8:6)
御霊の中で歩む時、このことが私の経験となる。
心の中に平安が満ちる時、私は罪に定められているという感覚を失う。
そして、心の中に平安が溢れるのは、勝利から勝利へと導いて下さる主イエスを賛美している時だ。