みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Law Of This Spirit Of Life, #2

2015年12月07日 | 聖書研究・信仰
第8章において、パウロは、御霊にある命についてのポジティブな側面を、詳細に我々に提示している。

「それ故、いまや罪はない」

このみことばがここにあるのは場違いではないかと最初に見た時にはそう思われた。

確かに、神との平安と怒りからの解放を得るための主の血潮によって罪は弁済された(ローマ5:1、9)。

罪には2種類ある。

つまり、神の御前にある罪と自分の目の前にある罪のふたつ(ちょうど平安が2種類あるように)。

自分の目の前にある罪は、神の御前にある罪よりもはるかにおぞましい場合がある。

キリストの血潮が神を満足させているのを見る時、私の罪は赦され、もはや神の御前で罪がないことを知る。

しかし、私にはいまだに欠落があることを知っている。

ローマ書7章に示されているように、このことを説明できる内なる罪の感覚が実にリアルに迫ってくる。

しかし、我が命であるキリストによって生きることを知った時、勝利の秘訣を心底知ることになる。

主を賛美せよ。

「それ故、いまや罪はない」

「霊の思いは命と平安」(ローマ8:6)

御霊の中で歩む時、このことが私の経験となる。

心の中に平安が満ちる時、私は罪に定められているという感覚を失う。

そして、心の中に平安が溢れるのは、勝利から勝利へと導いて下さる主イエスを賛美している時だ。




The Law Of This Spirit Of Life, #1

2015年12月02日 | 聖書研究・信仰
ローマ8:1
それ故、今やキリストにある者たちに罪はない
肉ではなく御霊に従って歩む者たちに

ローマ8:2
キリストにある命の御霊の法則があなたを解放した
罪と死の法則から







Christ Our Life, #7

2015年12月01日 | 聖書研究・信仰
自分で何とかしようとすること、主に依り頼むこと。

この2つの違いについて論じてきた。

この2つには天地の差がある。

まさしくそうだ。

何か良さそうなものとして話し合われるような問題ではない。

それは極めて重大な事実だ。

「主よ、私にはできませんので、もう二度とやってみようなどとは思いません」

これは、我々の多くが陥る罠だ。

「主よ、私にはできません。一旦手放します。今から先、私は主に依り頼みます」

自分で行なうことを止め、主がなさることに依存する。

一方で、主が始める働きに参加して大いに楽しむ。

これは受動的な態度ではない。

そんな風に主に依り頼むことは、極めて躍動的な生き方なのだ。

主から命を引き出す。

私の命そのものを主に任せる。

私の内に主の命を全うさせる。