みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

The Diversity Of The Experience, #4

2015年07月25日 | 聖書研究・信仰
ペテロは何を言いたかったのか。

彼がみことばを引用したのは、ペンテコステの経験を示すためだった。

ヨエルによって語られた聖霊の傾注。

しかし、ペンテコステにおいて見られた現出は、ヨエルの預言とはまるで一致しない。

聖書で語られたことは弟子たちには起きなかった。

また、弟子たちが経験したことは聖書には書かれていない。

ペテロの聖書引用は、その成就というよりむしろ的外れではないかのように見える。

この不思議をどう理解すればよいのだろうか。



The Diversity Of The Experience, #3

2015年07月25日 | 聖書研究・信仰
一方、ヨエルの預言には、「とてつもなく強い風が猛進するような音」とは書いていない。

聖霊の傾注に伴う「火のような二つに分かれた舌」とも書かれていない。

これらは2階の部屋で現出した。

ヨエル書には他国の言語で話すという記載は見られない。

しかし、ペンテコステにおいて、弟子たちは実際にそれを行なった。




The Diversity Of The Experience, #2

2015年07月24日 | 聖書研究・信仰
ペンテコステにおいて、聖霊が弟子たちに下った時、彼らの振る舞いは極めて異常だった。

それを目撃した人々のために、ペテロは神にこのことを説明して下さるよう求めた。

主はこう言われた。

「聖霊が信徒に下る時、ある者は預言し、ある者は夢を見、ある者は幻を見る」

「これが預言者ヨエルを通して神が語ったことだ」

しかし、ペテロは預言しただろうか。

それはヨエルが言ったのであって、ペテロが預言したとは言い難い。

そこにいた120人は預言し、幻を見ただろうか。

彼らがそれをしたとは書いていない。

彼らは夢を見ていたのか。

どうして夢など見れるであろうか。

彼らは皆起きていたのだ。

では、その場に適さない聖句を引用して、主は何を言いたかったのだろうか。

引用された聖句(ヨエル2章28,29節)によると、聖霊の傾注に伴い、預言、夢、幻があると書かれている。

しかし、ペンテコステにおいて、これらが起きたという証拠は欠いていると思われる。




The Diversity Of The Experience, #1

2015年07月23日 | 聖書研究・信仰
時に自問したくなる。

聖霊が私に下ったことをどのように知りうるのか。

どのようにしてかは説明できないが、我々はそれを知るのだ。

ペンテコステで使徒たちに湧き上がった私的感覚や感情の説明が我々に何かを与えることはない。

だから、彼らがどのように感じたかは正確には分からない。

しかし、あの時の彼らの感情や行動は何か異常であったことは分かる。

何故なら、弟子たちを見ていた人々が酒に酔っているようだと言っているからだ。

神の民に聖霊が下ると、説明ができない事がいろいろ起きる。

ある種のスーパーナチュラルな現象を伴うのだ。

しかし、それは主の臨在という圧倒される感覚と同じだ。

そのようなスーパーナチュラルな現象が、どのような表現形式をとるのかは知ることはできないし知る必要もない。

唯一つ確かなことは、神の御霊が下る人は皆それが分かるということだ。




Faith Is Again The Key, #10

2015年07月22日 | 聖書研究・信仰
あなたの置かれている状況は全く同じ。

条件を満たしたなら、あなたは2つの賜物を受け取る資格がある。

ひとつではない。

来て、もうひとつの賜物をも得ようとしないのは何故だろう。

主に言え。

「主よ。私は罪の赦しと聖霊の賜物を受けるに足る条件を満たしました。

「しかし、愚かにも罪の赦ししか受けていません」

「ここに、聖霊の恵みを受け取るために戻ってきました」

「主よ。それを確かに受けました。感謝の賛美を献げます」



Faith Is Again The Key, #9

2015年07月22日 | 聖書研究・信仰
ある日本屋で、2巻分冊3000円の本を買い、ちょうど3000円払って店を出たとしよう。

しかし、不注意にも、そのうち1巻をカウンターの上に忘れてきたとする。

家に帰り、一晩中探したが見当たらない。

さあ、そうするか。

店に戻り、忘れて来た本を手に入れるのだが、もう一度支払うなんて思ってはいないだろうか。

店員に、すでに料金を支払ったと説明して、忘れたもう一巻を返してくれるように頼む。

1円も支払うことなく、もう一巻を小脇に抱えて楽しそうに店を出る。

状況が同じなら、同じようなことをするのではないだろうか。




Faith Is Again The Key, #8

2015年07月21日 | 聖書研究・信仰
ここに、2つの神が約束した罪の赦しの条件がある。

「悔い改め(向き改め)」と公けにされた信仰。

あなたは悔い(思い)改めたか。

主との一体化を公に証言したか。

罪の赦しと聖霊の賜物を受けたか。

罪の赦しは受けたが、御霊は受けていないと言っているが。

ああ、友よ。

この2つの条件を満たせば、2つの賜物が与えられているはずだ。

なぜひとつしか受けなかったのか。

2つめの賜物を得るために、さらに何か「行なう」つもりか。



Faith Is Again The Key, #7

2015年07月21日 | 聖書研究・信仰
第2の条件はバプテスマだ。

バプテスマは内なる信仰の外向きの表現である。

私はキリストとともに死んで、葬られ、キリストとともによみがえった。

そして、バプテスマを乞う。

つまり、私的に信じていることを公的に公言する。

バプテスマは行ないにおける信仰である。




Faith Is Again The Key, #6

2015年07月20日 | 聖書研究・信仰
第1の条件である「悔い改め」とは、思いを変えることを意味する。

以前は、罪は楽しいことと思っていた。

しかし、今はその思いは変わった。

以前は、この世は魅力的な場所だと思っていた。

しかし、今はもっと魅力的なことを知っている。

以前は、キリスト者になることは悲惨だと思っていた。

しかし、今は異なった見方をしている。

かつてあのようなことなどを楽しいと思っていたが、今はそれを愚劣であると思う。

かつて他のことなどはひどく無価値であると思っていたが、今は最も貴重であると思う。

それが、思いの変化であり、悔い改めだ。

そんな思いの変化なしに、思いっきり変えられる人生なぞまずない。



Coffee Break, #13

2015年07月19日 | コーヒーブレイク
God will make the waters solid under your feet, when you are going to step up higher.