Defending the Faith
39分15秒から43分14秒まで
◇◇
何か判然としない。
200年前私は存在しなかった。
つまり、私は無だった。
しかし、今私は存在している。
これは、無から有が起きたのではないか。
シンプルな疑問。
只今検討中。
◇◇
故に、自己創造という選択肢は直ちに消去することができます。
ナンセンスであります。
先日、私はおかしな夢を見ました。
このことに関して、私がリチャード・ドーキンスと正式に討論するという夢です。
これは実際にあった話ではなく、ただの夢です。
単なるファンタジーです。
夢の中で、彼は自己創造についての言い訳をしていました。
彼との会話を通して、私は「どうすれば無から有が創造されるのか説明してくれないか」と聞いた。
彼はしばらく考え込んでから、私を見て、次のように言った。
「さて、ただそうなるです(笑い)。」
「おいおい、それを言うなよ。逃げるなよ。リチャード・ドーキンスはそんなことをいうような男じゃないだろ。」
彼がそんなことを言う夢を見ました。
彼に罪があると言っているのではありません。
もし仮に私たちが会話をすれば、恐らく彼はそう言うのではないでしょうか。
「ただ、そうなるのです。」と彼は言う。
「ただ、そうなる?」と私が聞くと、「ただ、そうなるのです」と彼が答える。
「ミスター・ドーキンス、自己創造に関して、その答えはあまりにひどくないか」と私は言う。
すると、彼は私を見て、「ひどいとはどういうことか」と聞き返す。
私は答える、「ただそうなのです。(笑い)」
私は司会者の法を向いて、言う「議長、弁護側は以上です。」
私は言った、「以上、議論は終了しました。」
私もドーキンス氏もこれ以上言うことはなかった。
ただ、そうなのです。
それが、私たちがいる場です。
さて、オーガスチンは、不可能性を理解していました。
不可能性とはありそうもないことではなく、自己創造が合理的に不可能であること。
このことを数えきれないくらい説明してきました。
もし無であった時が過去において一度でもあったならば、今ここにおいてあり得る可能性はただ一つ、無のみなのです。
このために、自我意識を確立することは、オーガスティンの出発点にとって極めて重要だったのです。
それ故、無条件で、絶対的に、数学的に何かがあるということを証明することが、デカルトのCogito(我思う・・)にとって極めて重要だったのです。
以上から、今何かが存在するのならば、それは自動的に常在的かつ継続的に何かが存在しているということを意味するのです。
これすなわち、常在的かつ継続的に存在しているのは何か、あるいは誰かなのかを発見する契機となるのです。
つねに存在する・・。
その存在が不定ではなく、依存性ではなく、誘導されたものではなく、有限ではない、非依存性であり、非誘導性であり、自己単立性であり、永遠である何か。
この考えは、私たちに強制的に植えつけられます。
私たちの指にではなく、私たちの目にでもない、私たちの耳にでもない、私たちの心の中に植え付けられるのです。
何故なら、私たちの心には、真理をきちんと確信できる領域があるからです。
オーガスティンはこのように考え、精神的構成体(4+3は7といった単純計算を理解するような数学的構成体のような)の存在に関して論じています。
さて、私はその通りだと思います。
39分15秒から43分14秒まで
◇◇
何か判然としない。
200年前私は存在しなかった。
つまり、私は無だった。
しかし、今私は存在している。
これは、無から有が起きたのではないか。
シンプルな疑問。
只今検討中。
◇◇
故に、自己創造という選択肢は直ちに消去することができます。
ナンセンスであります。
先日、私はおかしな夢を見ました。
このことに関して、私がリチャード・ドーキンスと正式に討論するという夢です。
これは実際にあった話ではなく、ただの夢です。
単なるファンタジーです。
夢の中で、彼は自己創造についての言い訳をしていました。
彼との会話を通して、私は「どうすれば無から有が創造されるのか説明してくれないか」と聞いた。
彼はしばらく考え込んでから、私を見て、次のように言った。
「さて、ただそうなるです(笑い)。」
「おいおい、それを言うなよ。逃げるなよ。リチャード・ドーキンスはそんなことをいうような男じゃないだろ。」
彼がそんなことを言う夢を見ました。
彼に罪があると言っているのではありません。
もし仮に私たちが会話をすれば、恐らく彼はそう言うのではないでしょうか。
「ただ、そうなるのです。」と彼は言う。
「ただ、そうなる?」と私が聞くと、「ただ、そうなるのです」と彼が答える。
「ミスター・ドーキンス、自己創造に関して、その答えはあまりにひどくないか」と私は言う。
すると、彼は私を見て、「ひどいとはどういうことか」と聞き返す。
私は答える、「ただそうなのです。(笑い)」
私は司会者の法を向いて、言う「議長、弁護側は以上です。」
私は言った、「以上、議論は終了しました。」
私もドーキンス氏もこれ以上言うことはなかった。
ただ、そうなのです。
それが、私たちがいる場です。
さて、オーガスチンは、不可能性を理解していました。
不可能性とはありそうもないことではなく、自己創造が合理的に不可能であること。
このことを数えきれないくらい説明してきました。
もし無であった時が過去において一度でもあったならば、今ここにおいてあり得る可能性はただ一つ、無のみなのです。
このために、自我意識を確立することは、オーガスティンの出発点にとって極めて重要だったのです。
それ故、無条件で、絶対的に、数学的に何かがあるということを証明することが、デカルトのCogito(我思う・・)にとって極めて重要だったのです。
以上から、今何かが存在するのならば、それは自動的に常在的かつ継続的に何かが存在しているということを意味するのです。
これすなわち、常在的かつ継続的に存在しているのは何か、あるいは誰かなのかを発見する契機となるのです。
つねに存在する・・。
その存在が不定ではなく、依存性ではなく、誘導されたものではなく、有限ではない、非依存性であり、非誘導性であり、自己単立性であり、永遠である何か。
この考えは、私たちに強制的に植えつけられます。
私たちの指にではなく、私たちの目にでもない、私たちの耳にでもない、私たちの心の中に植え付けられるのです。
何故なら、私たちの心には、真理をきちんと確信できる領域があるからです。
オーガスティンはこのように考え、精神的構成体(4+3は7といった単純計算を理解するような数学的構成体のような)の存在に関して論じています。
さて、私はその通りだと思います。