みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#20 信仰の防衛:パート1 私の思考パターン

2021年07月28日 | 信仰の防衛
第1章
キリスト教神学

p27~
Chapter 1
Christian Theology
Part One
The Structure of My Thought
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

私の見解に対する批判への回答であるが、私の一般的思考パターン(structure)を考慮しなければ、大して役に立つとは思えない。

もう一つある。

ダン(Daane)は、私の著作「一般恩恵」を取り上げることにより、私の思考パターンを取り扱っている。

彼の批判を取り扱うためには、私の過去の、そして現在の思考パターンについて言及する必要がある。

私の基本的思考パターンは極めてシンプルだ。

どのような種類であれ、組織神学を研究しようと思ったことはない。

私の仕事はキリスト教弁証学を教えること。

それ故、改革派キリスト教教理体系を前提とする。

人間が必要としているのはまさにこの体系であると学生に教えている。

学生の殆どは私の授業に初めて出席する時、組織神学をあまり知らないので、簡単な調査を行なうことにしている。

私の同僚であるジョンマーレイ教授から組織神学の講義を受けると、彼らは私のところに戻り、キリスト教弁証学を新たに学ぶ。

弁証学に関する私の小講義関連試験であるが、第1章「われわれは何を信じ、何を防衛するのか」という疑問を取り扱う。

われわれは、キリスト教的一神教を防衛しなければならない。

歴史的事実のみを議論することによって、ひとつの歴史上の宗教としてのキリスト教を防衛しようとする試みは不可能であり、役に立たない。

われわれは、キリストは墓からよみがえったと宣言する。

さらに、われわれは、この復活はキリストの神性を証明すると宣言する。

これこそがキリスト教に関する歴史的な議論に勇気を与えてくれる。

しかし、実践的哲学者は、この系統の論理に従うことを拒むだろう。

仮に、現実的にキリストが墓からよみがえったことは許容しても、実践的哲学者は、何か非常に奇異なことが人間イエスに起こったことを示しているに過ぎないと言うだろう。

実用主義者の哲学というのは、この宇宙にある万物はお互いに無関係であり、イエスの復活という事実
(それは事実であると認めるが)は、彼の死後2000年を経て生きているわれわれには何の意味もないと考える。

このことから明らかなことは、歴史的宗教としてキリスト教を真に防衛しようとするであれば、キリスト教が土台としている一神教を防衛する必要があり、それ故、われわれは哲学的な議論へと巻き込まれていくことになる。