完全な自由の危険性。図書館のリサイクル図書は、どうしてもたくさん、持って帰ってしまうのだが。たまたま図書館のリサイクル図書で、西尾幹二氏の「国民の歴史」という歴史の本があったので持って帰った。正確な歴史の本というより、一個人による歴史解釈の本である。「正確な歴史の本」と言ったが、この言葉は実は、矛盾を内包している。いわゆる学校教育で文部省が認定して、中学生、高校生に教えている歴史教科書が、「正確な歴史の本」とは、言えないのである。それは、多数の歴史学者が多くの文献を元にして、念には念を入れて作った歴史の本である。だからほとんどは妥当であるけれど、誤りだってある。完全に正確とは、言えない。こんなことは、当たり前である。歴史研究家、考古学者の研究によって、真実だと信じられていた歴史の事実が、引っくり返されることは、何度も起こっている。だから、文部省が認めている歴史教科書といえども、それを書いた歴史学者達の解釈による歴史の本、と言わざるを得ない。のである。だから、文部省認定の歴史教科書も、それを書いた人達と、書くにあたって参考にした文献を記述して、教科書の最初の冒頭に、「この教科書は、この人達の解釈による日本の歴史の本です」と記しておくべきである。現在、書かれている歴史教科書の中にも、誤りがあって、将来、引っくり返される時が来ることはあるだろう。しかし98%位は、間違っていない。そして、些細な間違いがあるかもしれなくても、それを使って歴史を教えていいのである。それは、それ以外の方法で、歴史を教えたり、学んだりすることは、出来ないからである。便宜的に一応、真実と仮定して、学んでいいのである。大学を卒業して、社会人になると、「間違いだらけの歴史」だとか「歴史の真実」だとかいう本は、無限にあるから、それを読むことになるからである。さて、西尾幹二氏の「国民の歴史」の最後は、「人は自由に耐えられるか」という最終章によって、しめくくられており、「完全な自由というものの危険性」を訴えている。これはその通りである。もちろん、こういう事は無数の人が言っていることであり、というよりは、物事の本質である。ほとんどの人は拘束されることを不自由だと感じるだろう。義務教育の小学校、中学校では、国語、英語、数学、理科、社会、の学科の勉強をして単位を取らなくてはならない。もし、それを無視して試験に通らなかったら、落第して進級できない。高校や大学受験にしても、義務ではなく、自分で選んだ意志ではあるが、やはり拘束である。本当は、もっと、スポーツとか、趣味とか、旅行とか、遊びたい、とか思っているが、それを犠牲にして、必死で勉強しなければならない。多くの人にとっては苦痛だろう。しかし、いざ大学に入ってしまうと、そして社会人になって、数年して仕事にも慣れてしまうと、もう拘束というものがなくなって自由になれる。しかし念願が叶って自由になってしまうと、何か虚しくなってしまうのである。決められたことを、事務的にやるだけの毎日。パチンコ。麻雀。ごろ寝してのテレビ観賞。こういう生活に本当に満足している人がいるのだろうか。心のどこかでは何か虚しいと感じているのではないだろうか。そこで学生時代を思い出してみる。あの時は、嫌ではあったが、充実していたな。と。拘束されて、必死で受験勉強していた時は辛かったけど充実していたなと思う。
さて、私が今、小説創作で痛感していることも、「完全な自由というものの危険性」である。小説ほど自由なものはない。何をどう書いてもいいのである。私は今まで、自分の感性のおもむくままに、自分の書きたい小説を書いてきた。いわば、無から、自分の感性というものだけを頼りに小説を書いてきた。「無から」とは言っても、もちろんヒントになるものは、積極的に求めてきたつもりである。谷崎潤一郎のエロチックな小説が、やはり私の一番、気質に合うものだった。それ以外でも、小説創作のヒントになるものはないかと、そういう視点で小説を読んできた。日常生活でも、絶えず小説創作のヒントになるものは、ないかと、そういう視点で生活してきた。しかし、「無。つまりは完全な自由」から何かを創り出そうとすると、かなり厳しいのである。一言でいってしまうと、何か、拘束があった方が、小説は作りやすい、と思っている。たとえば、「太平洋戦争の話を小説の中に入れなさい」だとか、「昆虫の好きな少年を、登場人物の中に入れなさい」だとか、「主人公の職業は八百屋にしなさい」だとか、そういう拘束があった方がいいのである。まあ、拘束に逃げる、という見方も出来る。もしかすると失敗する可能性だって充分ある。しかし、さらにやっかいな事がある。それは、拘束というものが全くない中で、小説を書いている私に、はたして、そういう拘束を自分に課すことが、出来るか、という問題である。これは厳しい。やっかいな条件など煩わしいだけである。しかし、それは、やはり、しなくてはならない。何の拘束もない公共のトレーニングジムに行っても、やはり、どうしても怠けてしまう。その点、金を払って、アスレチックジムに通っている人なら、金を払っているんだから、やらなきゃ、もったいない、という心理が起こるだろうから、マッスルマンになれる可能性がある。では、小説で言うなら、どうすべきか。それは小説教室みたいな所に通うべきではなかろうか。何も、クダクダと分りきった、くっだらない事を説明する小説教室ではない。「主人公の職業は八百屋という設定の小説を、いついつまでに書いてこい」という、それだけを要求するような小説教室である。「授業料は、月、基本一万円だ。しかし書けなかったり、書いてこなかなかったら授業料は2万円だ。書いてきたら内容を見て、採点する。評価は100点満点で、点数の分だけ授業料を安くする。たとえば80点なら、8千円、差し引いて授業料は二千円にしてやる」とおどすような小説教室である。まあ、本当に、そういうような小説教室に通おうかとも思う。しかし、今のところ、それは最終手段である。やはり、デタラメではない、いい拘束を自分で考えて、それを自分に課す、というのが妥当なところだろう。
さて、私が今、小説創作で痛感していることも、「完全な自由というものの危険性」である。小説ほど自由なものはない。何をどう書いてもいいのである。私は今まで、自分の感性のおもむくままに、自分の書きたい小説を書いてきた。いわば、無から、自分の感性というものだけを頼りに小説を書いてきた。「無から」とは言っても、もちろんヒントになるものは、積極的に求めてきたつもりである。谷崎潤一郎のエロチックな小説が、やはり私の一番、気質に合うものだった。それ以外でも、小説創作のヒントになるものはないかと、そういう視点で小説を読んできた。日常生活でも、絶えず小説創作のヒントになるものは、ないかと、そういう視点で生活してきた。しかし、「無。つまりは完全な自由」から何かを創り出そうとすると、かなり厳しいのである。一言でいってしまうと、何か、拘束があった方が、小説は作りやすい、と思っている。たとえば、「太平洋戦争の話を小説の中に入れなさい」だとか、「昆虫の好きな少年を、登場人物の中に入れなさい」だとか、「主人公の職業は八百屋にしなさい」だとか、そういう拘束があった方がいいのである。まあ、拘束に逃げる、という見方も出来る。もしかすると失敗する可能性だって充分ある。しかし、さらにやっかいな事がある。それは、拘束というものが全くない中で、小説を書いている私に、はたして、そういう拘束を自分に課すことが、出来るか、という問題である。これは厳しい。やっかいな条件など煩わしいだけである。しかし、それは、やはり、しなくてはならない。何の拘束もない公共のトレーニングジムに行っても、やはり、どうしても怠けてしまう。その点、金を払って、アスレチックジムに通っている人なら、金を払っているんだから、やらなきゃ、もったいない、という心理が起こるだろうから、マッスルマンになれる可能性がある。では、小説で言うなら、どうすべきか。それは小説教室みたいな所に通うべきではなかろうか。何も、クダクダと分りきった、くっだらない事を説明する小説教室ではない。「主人公の職業は八百屋という設定の小説を、いついつまでに書いてこい」という、それだけを要求するような小説教室である。「授業料は、月、基本一万円だ。しかし書けなかったり、書いてこなかなかったら授業料は2万円だ。書いてきたら内容を見て、採点する。評価は100点満点で、点数の分だけ授業料を安くする。たとえば80点なら、8千円、差し引いて授業料は二千円にしてやる」とおどすような小説教室である。まあ、本当に、そういうような小説教室に通おうかとも思う。しかし、今のところ、それは最終手段である。やはり、デタラメではない、いい拘束を自分で考えて、それを自分に課す、というのが妥当なところだろう。