ミステリー体験
僕が中学生になった年、鎌倉市の大船に家が建った。
大船は、ほとんどの人が知っていると思うが、東海道線と横須賀線が分岐する駅で、電車の中から、北に、大船観音が見える。
僕は、中学は、東京の東久留米市にある、自由学園に入ったので、大船から、学校のある西部池袋線の、ひばりヶ丘、まで、通学することは出来なかったので、自由学園の寮に入った。
しかし僕は、寮の生活が嫌いだったので、夏休みはもちろん、土日、には、大船の家で過ごした。
なぜ、父が、大船に、家を建てたかというと、父の母親、や、兄、姉、が、住んでいる家が、大船にあったからである。
父の兄は、喘息がひどく、僕が、小学2年生の時に、喘息重積発作で、49歳で死んでしまった。
父の姉は、幼い頃、小児麻痺になって、片足が、ビッコだった。
喘息持ち、や、ビッコでは、結婚してくれる相手がいないので、伯父も、伯母も、独身だった。
父も喘息持ち、だったが、伯父ほど、ひどくはなく、あるラッキーで、高卒なのに、一流企業に入社することが出来た。
伯母は、ビッコだったが、生田流の琴の先生だった。
祖母の家は、僕の家から、歩いて、3分も、かからない所にあった。
というより、父が、祖母の家の、すぐ近くに、家を建てたのである。
僕は、中学、高校、と、この大船の家で過ごした。
伯母は、自分の子供がいないので、僕を、自分の子供のように、可愛がってくれた。
しかし、僕は、それほど、伯母を好いてはなかった。
祖母の家は、近いので、たまに行くと、家の中から、琴の音が聞こえてきた。
しかも、それは、一人の演奏ではなく、数人の演奏だった。
伯母は琴の先生なので、弟子(というか生徒)、が、月謝を払って、伯母の琴の指導を受けていた。
伯母が一人で、ビッコの足を引きずりながら、歩いている姿は、可哀想だった。
僕は、よく、伯母に肩を貸して歩いた。
僕から、進んで、伯母のお供をする、ということは、なかったが、伯母と二人になった時には、伯母に肩を貸して歩いた。
僕の方から、自発的に、肩を貸していたのではなく、伯母の方から、僕に肩を貸すよう、頼んできたのである。
僕としては、別に、嫌ではなく、かといって、可哀想な障害者を助けようという、積極的な善意の意志もなかった。
きわめて、自然なことだった。
しかし、少しは、可哀想と思う気持ち、があったと思う。
ある時、大船駅から、駅前通りを、伯母に肩を貸しながら、歩いていた。
大船駅の、駅前通り、は、ゴミゴミしていて、あまり好きではなかった。
その時、駅前通りの、途中の、ある3階建てのビルの前で、伯母は止まった。
「二階の一室に、知り合いの人がいるから、これを渡して」
そう言って、伯母は、僕に、手紙を渡した。
伯母は、足が不自由なので、二階に上がれない。
なので僕に頼んだのである。
別に、そのくらいの用事なら、何ともなかった。
なので、僕は、手紙を持って、二階に上がって、その部屋の前に立った。
僕は、部屋の、チャイムを押した。
ピンポーン。
すると、しばしして。
「はい。どうぞ」
と、中から声が聞こえてきた。
なので、僕は、ドアノブを回した。
そして、戸を開けた。
部屋は、かなり広かった。
一人の、若い女の人が居た。
彼女は白いドレスのような服を着ていた。
「あ、あの。伯母に頼まれて、手紙を持って来ました」
僕は、そう言って、手紙を見せた。
「どうも有難うございます」
女の人は、そう言って、手紙を受け取った。
その人は、それ以外、何も言わなかった。
無口な人だな、と思った。
僕も無口だが。
「失礼しました」
僕は、そう言って、部屋を出て、一階に降りた。
「手紙、渡してくれた?」
伯母が聞いた。
「はい」
「ありがとう」
そうして、伯母と僕は、近くのバス停留所に行き、バスが来るのを待った。
しばらくすると、バスが来た。
僕と伯母は、バスに乗って、家に一番近い、浄楽寺、の停留所で降りた。
僕は、伯母を、祖母の家まで、肩を貸して、送った。
そして、僕は、自分の家にもどった。
・・・・・・・・・
あの女の人は、どういう人なのだろう?
僕は、そのことが、気になった。
それで、数日後、僕は、その後、大船駅の、駅前通り、にある、あのビルに行ってみた。
しかし、不思議なことに、どう探しても、そのビルがないのである。
ビルがなくなるはずなどない。
しかし、どんなに、探してみても、そのビルは、見当たらないのである。
これは、事実である。
少なくとも僕にとっては。
伯母が、僕に、手紙を渡して、「これを、二階にいる人に渡して」と言ったのは、間違いないのだから。
伯母に肩を貸して、大船駅の、駅前通り、を歩いたのも鮮明に覚えている。
僕の記憶力は、そんなに、お粗末なものではない。
なので、これは、現在に至るまで、僕のミステリー体験である。
その伯母も、僕が、高校1年生の時に、交通事故で死んでしまった。
大船の家は、僕が大学を卒業し、医師になって、何年かした時に、父が、売り払ってしまった。
父も、喘息があり、定年退職した後、本土の冬は過ごしにくい、という理由で、沖縄の首里城に近い所にある、マンションに、母と、行ってしまった。
僕が中学生になった年、鎌倉市の大船に家が建った。
大船は、ほとんどの人が知っていると思うが、東海道線と横須賀線が分岐する駅で、電車の中から、北に、大船観音が見える。
僕は、中学は、東京の東久留米市にある、自由学園に入ったので、大船から、学校のある西部池袋線の、ひばりヶ丘、まで、通学することは出来なかったので、自由学園の寮に入った。
しかし僕は、寮の生活が嫌いだったので、夏休みはもちろん、土日、には、大船の家で過ごした。
なぜ、父が、大船に、家を建てたかというと、父の母親、や、兄、姉、が、住んでいる家が、大船にあったからである。
父の兄は、喘息がひどく、僕が、小学2年生の時に、喘息重積発作で、49歳で死んでしまった。
父の姉は、幼い頃、小児麻痺になって、片足が、ビッコだった。
喘息持ち、や、ビッコでは、結婚してくれる相手がいないので、伯父も、伯母も、独身だった。
父も喘息持ち、だったが、伯父ほど、ひどくはなく、あるラッキーで、高卒なのに、一流企業に入社することが出来た。
伯母は、ビッコだったが、生田流の琴の先生だった。
祖母の家は、僕の家から、歩いて、3分も、かからない所にあった。
というより、父が、祖母の家の、すぐ近くに、家を建てたのである。
僕は、中学、高校、と、この大船の家で過ごした。
伯母は、自分の子供がいないので、僕を、自分の子供のように、可愛がってくれた。
しかし、僕は、それほど、伯母を好いてはなかった。
祖母の家は、近いので、たまに行くと、家の中から、琴の音が聞こえてきた。
しかも、それは、一人の演奏ではなく、数人の演奏だった。
伯母は琴の先生なので、弟子(というか生徒)、が、月謝を払って、伯母の琴の指導を受けていた。
伯母が一人で、ビッコの足を引きずりながら、歩いている姿は、可哀想だった。
僕は、よく、伯母に肩を貸して歩いた。
僕から、進んで、伯母のお供をする、ということは、なかったが、伯母と二人になった時には、伯母に肩を貸して歩いた。
僕の方から、自発的に、肩を貸していたのではなく、伯母の方から、僕に肩を貸すよう、頼んできたのである。
僕としては、別に、嫌ではなく、かといって、可哀想な障害者を助けようという、積極的な善意の意志もなかった。
きわめて、自然なことだった。
しかし、少しは、可哀想と思う気持ち、があったと思う。
ある時、大船駅から、駅前通りを、伯母に肩を貸しながら、歩いていた。
大船駅の、駅前通り、は、ゴミゴミしていて、あまり好きではなかった。
その時、駅前通りの、途中の、ある3階建てのビルの前で、伯母は止まった。
「二階の一室に、知り合いの人がいるから、これを渡して」
そう言って、伯母は、僕に、手紙を渡した。
伯母は、足が不自由なので、二階に上がれない。
なので僕に頼んだのである。
別に、そのくらいの用事なら、何ともなかった。
なので、僕は、手紙を持って、二階に上がって、その部屋の前に立った。
僕は、部屋の、チャイムを押した。
ピンポーン。
すると、しばしして。
「はい。どうぞ」
と、中から声が聞こえてきた。
なので、僕は、ドアノブを回した。
そして、戸を開けた。
部屋は、かなり広かった。
一人の、若い女の人が居た。
彼女は白いドレスのような服を着ていた。
「あ、あの。伯母に頼まれて、手紙を持って来ました」
僕は、そう言って、手紙を見せた。
「どうも有難うございます」
女の人は、そう言って、手紙を受け取った。
その人は、それ以外、何も言わなかった。
無口な人だな、と思った。
僕も無口だが。
「失礼しました」
僕は、そう言って、部屋を出て、一階に降りた。
「手紙、渡してくれた?」
伯母が聞いた。
「はい」
「ありがとう」
そうして、伯母と僕は、近くのバス停留所に行き、バスが来るのを待った。
しばらくすると、バスが来た。
僕と伯母は、バスに乗って、家に一番近い、浄楽寺、の停留所で降りた。
僕は、伯母を、祖母の家まで、肩を貸して、送った。
そして、僕は、自分の家にもどった。
・・・・・・・・・
あの女の人は、どういう人なのだろう?
僕は、そのことが、気になった。
それで、数日後、僕は、その後、大船駅の、駅前通り、にある、あのビルに行ってみた。
しかし、不思議なことに、どう探しても、そのビルがないのである。
ビルがなくなるはずなどない。
しかし、どんなに、探してみても、そのビルは、見当たらないのである。
これは、事実である。
少なくとも僕にとっては。
伯母が、僕に、手紙を渡して、「これを、二階にいる人に渡して」と言ったのは、間違いないのだから。
伯母に肩を貸して、大船駅の、駅前通り、を歩いたのも鮮明に覚えている。
僕の記憶力は、そんなに、お粗末なものではない。
なので、これは、現在に至るまで、僕のミステリー体験である。
その伯母も、僕が、高校1年生の時に、交通事故で死んでしまった。
大船の家は、僕が大学を卒業し、医師になって、何年かした時に、父が、売り払ってしまった。
父も、喘息があり、定年退職した後、本土の冬は過ごしにくい、という理由で、沖縄の首里城に近い所にある、マンションに、母と、行ってしまった。