小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

皮膚を鍛える

2008-05-18 22:44:19 | 医学・病気
皮膚を鍛える。
私は水泳が出来るので、たまにプールに行く事がある。しかし、色々と、いそがしく、なかなか行く時間がない。そして泳ぐとしても、プールで、海では、ほとんど泳がない。プールで泳ぐのも、面倒がっているようなので、海では、なおさらである。しかし、海に行くと、つい大海原を水平線のはてまで泳ぎたくなる。ある時、海で泳いだら、過敏性腸の鈍痛が、スッとなくなったことがあった。これは、おそらく海水の刺激がよかったのだと思う。プールでは、持久力の訓練にはなるが。誰でも、歯科治療のような痛みを伴う時、体のどこかをつねることは、よくある。本命の痛みを、別の痛みによって、そっちの方に逃がそうとしているのだ。そういう原理が働いたのだと思う。それと、もう一つ、柔肌に海水の刺激が加わった事も、よかったのだと思う。過敏性腸では、腸の神経ばかりに気が行ってしまうが、柔肌では、ますます腸の神経が過敏になってしまう。
私は小学校二年の時、喘息の施設で、毎日、腕が赤くなるまで乾布摩擦をやらされたが、当時は、その意味がわからず、嫌々やっていたので、今では、もっと気を入れてちゃんとやっておけばよかったと後悔している。皮膚を鍛えると、外部の皮膚は、気管支や腸管につながっているから、呼吸器や消化器を鍛える効果があるのだ。

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結跏趺坐

2008-05-18 22:40:16 | 医学・病気
結跏趺坐
結跏趺坐について書いておこうと思う。結跏趺坐とは、日本の座禅の足の組み方である。多くの人は、座禅は組めないのではないかと思う。あるいは、組めても数分で足が痛くなって出来なくなってしまうのではないか、と思う。私自身、そうだったからだ。私は体の関節が非常に柔らかいので、子供の時から座禅は組めた。しかし、数分で痛くなって、長くはつづけられなかった。しかしである。ある機会に、座禅を組むことになった。二人の人が、結跏趺坐を長時間組んでいるので、私も、彼らに対抗する気持ちで、足が痛くなっても、つづけて組んでいた。そしたら、痛くなくなってきたのである。それ以来、私は、神経がまいると、よく結跏趺坐をしている。私は、一時間でも二時間でも、結跏趺坐が組めるのである。そして、これはノイローゼになった時、非常に、有効なのである。結跏趺坐を組むと、頭の雑念が消えるのである。正座とか、胡坐ではダメである。雑念は消えない。結跏趺坐でなくてはならないのである。なぜ、結跏趺坐を組むと雑念が消えるのか、その原理は、わからない。結跏趺坐は、長い歴史があるから、その原理を書いたものもあると思う。素人考えでは、結跏趺坐が、自分の行動を拘束してしまう事に、それと関係があるように思う。結跏趺坐を組むと組みはじめの方の足首が激しく伸ばされる。これが、人体のつぼを刺激しているのかもしれない。また、伸ばされた足首の刺激が頭の雑念を消しているのかもしれない。正座や、胡坐では、いつでも自分の意志でやめてしまう事が簡単に出来る。結跏趺坐でも、自分の意志で、解く事は出来る。しかし、結跏趺坐は一度、組んだら正座や胡坐よりは、はるかに拘束性が強い。これは、神経がまいった時、確実に雑念から開放されるので、よくやる事である。他のノイローゼの人も、体が硬いから、などと、最初から決めつけずに、やってみる事をお勧めしたい。訓練によって、出来るようになる可能性はあると思う。

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対人恐怖症対策

2008-05-18 22:37:04 | 医学・病気
対人恐怖症対策
対人恐怖症について、その対策を書いておこうと思う。私自身、対人恐怖症に、相当、悩まされた。自殺した漫画家の山田花子さんも、対人恐怖症に悩まされた。対人恐怖症にも、色々なものがあるが、ここでは、最悪な、視線恐怖症について述べたいと思う。視線恐怖症で悩んでいる人は、極めて少ないと思う。百人に一人もいないと思う。ので、あまり書く価値はない。しかし、視線恐怖症で、悩んでいる人にとっては、生き地獄にも等しい。私自身、内向的な人間なので、やはり、やはり内向的な人間が好きである。仲間意識が起こるからである。内向的な人間で、すぐに思いつくのは、本田信一さん、池見酉次郎先生、山田花子さん、などである。やはり皆、対人恐怖症で悩んだ。
視線恐怖症とは、人と視線が合ってしまう悩みである。山田花子さんは、そのため、出かける時は、サングラスをしていたほどである。視線恐怖症は、逆の立場になってみれば、容易にわかる。誰だって、人からジロジロ見られたら不快である。ジロジロでなくても、一瞬でも、人と視線が合うと、気まずいものである。しかし、社会生活をする以上、人の顔を見ない、ということは出来ない。むしろ、人と話をする時には、相手の顔を見て話すのが礼儀である。普通の人では、これは、問題ないが、内向的な人、視線恐怖症の人では、これがつらいのである。視線が固定してしまうからである。まず、視線恐怖症のインスタントな対処法。それは、相手の鼻を見ることである。目や口では、問題があるが、鼻なら、視点が固定しても、それほど問題ではない。鼻をじろじろ見られたからといって、そう怒る人はいない。
視線恐怖症は、視点が固定してしまうことによって起こる。
では、視線を固定しなければいいではないか、というと、そうもいかないのである。視線恐怖症の人は、自分の意志で、視線を固定しているのではなく、自分の意志とは関係なく視線が固定されてしまうのである。
これはどうしてか。これは、内向性、外向性、という性格に関係しているのである。
世の中の人は99%外向的人間である。これは、人間に限らず、生物というものは、外向的なものである。自分の周囲に関心が向かない生物というものは無い。餌とり、外敵から身を守る、縄張り、などを持ち出すまでもなく、周囲の状況の変化にすぐに対応できるように、耐えず、周囲に関心を持っているというのが、普通である。自分と外界との間に境界線は無い。連続しているのである。
スポーツを例にすると、わかりやすい。この場合のスポーツは、水泳、などのような個人スポーツではなく、野球などのようなチームワークが要求される集団スポーツでなくてはならない。野球の場合、守りの場合、どこのポジションの選手でも、全ては打者がどこに打つか、に集中している。いや、打者だけではない。ランナーが出ていれば、それも頭に入れていなくてはならないし、見方の選手のクセ、長所、短所、など、全ての事を頭に入れていなくてはならない。つまり、野球をしている時は、どこのポジションの選手でも、野球すべてが、見えているのである。自分の心は空で、反射で行動している。さらに、野球だけではなく、応援する人の、僅かな動きでさえ、感じとれる状態にある。心が空で反射で、外界の変化に対応しているからだ。
これが、野球に限らず、人間の普通の生活の状態である。
だから、外向的である、という事が、普通なのであって、内向的であるというのは、病的な精神状態なのである。視線恐怖症の人は、自分と外界が分離してしまっているのである。
では、これを治すには、どうしたらいいか。
野球のような外向性が要求されるスポーツをする、のは、どうか。確かに、やっている時には、多少の効果があるだろう。しかし、効果は、あまりない、と思う。やっている時には、外向的になれても、おわれば、また、元の内向的性格にもどってしまう、からだ。
恐縮だが、私の例を挙げたい。私は、ある心療内科のクリニックで、自律訓練法をやった。それまでも、私は一人でも、何とか自律訓練法を身につけたくて、練習した事があるのだが、上手く出来るようにならなかった。だが、ある心療内科のクリニックのことである。自律訓練法をやった。5~6人が座って、目をつぶり、施術者の、「手が重くなる」などの暗示の言葉をかけていった。私も視線恐怖症に悩まされていたので、真剣にやった。この時、不思議な事が起こったのである。それは、私の視点が自分の目の位置から、離れ、空中に浮いたのである。目をつぶっているから、周りは見えない。想像である。私は部屋の上から、自分を含め、目をつぶって、自律訓練法をしている人達が、まざまざと見えたのである。これは、自律訓練法では、手や足が重くなって、体が動かなくようにするから、でもあり、私が意識して、そういう事をやってみようとしたからでもあると思う。ともかく私は目以外の視点から、自分を見る事が出来るようになったのである。それは、その、たった一回の自律訓練法がきっかけである。クリニックからの帰り道でも、私は意識して、自分の視点を自分の前方5メートルの上方から、道を歩いている自分やその周辺を見る事が出来るようになったのである。もちろん、物理的にそんな事は出来ない。あくまで、想像力である。これは、意識してしようと思わなければ出来ない。そして、これは集中力である。これによって頭の雑念が消え、視点の固定がなくなったのである。私は視線恐怖症は、これと同じような方法で、かなり消せると思っている。つまり、人の中にいる時、何か、ある事に集中力を働かすのである。お経を唱えるのでもいいし、簡単な暗算をするのでもいい。注意を何か、そっちの事に持っていくのである。これくらいのことなら、人間は、何かしながら、人と話をすることくらい容易に出来る。人間は何かに集中している時、かえって視野が広くなるのである。
もっとも、私は人と話す時、や、街を歩いている時、絶えず、視点を宙に移しているわけではない。そんなことしつづけたら、疲れてしまう、し、そんな必要もない。私は体調のいい時と悪い時の起伏が大きく、特に体調が悪くなって、頭に雑念が起こって、視線恐怖症におちいりそうになった時だけ、最後の手段として持っているのである。そして視線恐怖症になった時でも、その対策を持っているから、もう安心なのである。

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