そこで分からない内は「自我」であると名前を付けてみたけれども、分かってみれば
それがそのまま悟りであり、法であり、道であるという事になる訳です。
この事を「修證不二(しゅしょうふに)」といって、「修 その物が証拠であり悟りである」
と説明しています。
ですから、「念を起こさない今の事実(修行)」に徹すれば本当に自分が満足する
(悟りを得る)事が出来るのです。
そこで分からない内は「自我」であると名前を付けてみたけれども、分かってみれば
それがそのまま悟りであり、法であり、道であるという事になる訳です。
この事を「修證不二(しゅしょうふに)」といって、「修 その物が証拠であり悟りである」
と説明しています。
ですから、「念を起こさない今の事実(修行)」に徹すれば本当に自分が満足する
(悟りを得る)事が出来るのです。