そこで分からない内は「自我」であると名前を付けてみたけれども、分かってみれば
それがそのまま悟りであり、法であり、道であるという事になる訳です。
この事を「修證不二(しゅしょうふに)」といって、「修 その物が証拠であり悟りである」
と説明しています。
ですから、「念を起こさない今の事実(修行)」に徹すれば本当に自分が満足する
(悟りを得る)事が出来るのです。
そこで分からない内は「自我」であると名前を付けてみたけれども、分かってみれば
それがそのまま悟りであり、法であり、道であるという事になる訳です。
この事を「修證不二(しゅしょうふに)」といって、「修 その物が証拠であり悟りである」
と説明しています。
ですから、「念を起こさない今の事実(修行)」に徹すれば本当に自分が満足する
(悟りを得る)事が出来るのです。
私たち衆生は「念、念」と言っていますが、「念」とはどういうものかという
説明は出来ません。
或いは「心(しん、こころ)」も説明できるものではありません。
白隠禅師の「坐禅和讃(ざぜんわさん)」の中で、「無念の念を念として」
と言うお言葉がありますが、「無念の念」とは誰も名前を知(識)らないのです。
おシャカ様は「世界中の人々は皆、我が子だからどうしても済度しなければならない、
捨てて置けない」とおっしゃっています。
これはおシャカ様の慈悲心より観る理想です。「救世(くせ)の欲」です。
おシャカ様にも欲があるのです。
それはどういう欲かと言うと、華厳経に「清浄の欲を起こして、無上道を志求(しぐ)す」
とあります。
無上道を志求して、求めなければならないということです。
おシャカ様の眼から見ると、私たち衆生があわれで捨てて置けないのです。
どうしても自分の身心の在らん限り世の中の衆生を救いたいということなのです。
第三に、「生界(しょうかい)を盡(つく)すこと能はず」。
生界とは私たち衆生の世界ということです。
現在の人類全員を残らず救い盡(つく)すことは出来ないのです。
私たち衆生が自分の家を円満にしようと思っても、なかなか出来にくいのと
同じことです。
自分で自分の心さえも、自分の自由には行かないものなのです。
何故ならば、この世は「娑婆世界(自分の思い通りにはならない世界)」だからです。
「仏(おシャカ様を始めとして、歴代の覚者方です。以降、仏と記述)」にも
「三不能」という三つの出来ない事があるのです。
第一に、「定業(じょうごう)を免るる能はず」。
仏でも定まった業があって定業は免れないのです。
仏も提婆(だいば)のような者に苦しめられたり、「九悩、十業」と言って
九つの悩み、十の業報(ごっぽう)というものがあるのです。
善良な人で立派な人であるから災難には逢わないと思ってもそうはいかないのです。
災難にも出会わなければならないことがあるのです。
第二に、「無縁を度すること能はず」。
縁の無い者は済度出来ないのです。縁無き衆生は度し難し、です。
物をつかまえて、人間(にんげん)は善いとか悪いとかということを考えます。
実はその事が間違いなのです。
世の中の全てのものは人間の為にあるのではありません。
人間も世の中の一粒です。
その者が勝手な事を考えて、そうして善いの悪いのとそんな事を始めるから無謀なのです。
そうではありません。
「参同契(さんどうかい)」にも「万物(ばんぶつ)自ら功あり、当に用と処とを言うべし」
と、ありますように、全ての物は善いとも悪いとも名付けられない存在です。
有(在)るものが本当に只、有(在)るという世界です。
用い方によって何れも善いといわれ、用い方によって何れも悪いといわれるだけの物です。
一つの目標が立つとその目標に対して、物を見る時分に善い悪いと、いわれるだけのものです。
ですから、「自処位(時間、場所、位置)」が異なると、ガラッと違って来るのです。
仏法を信じない人の解釈は、「自分は今、迷倒の衆生である本有円成仏ではない、
だから修行によって仏に成らなければならない」と、全然逆な考えを持っていることが
おわかり頂けると思います。
これは、おシャカ様の教えが本当に信じられないからです。
そういう「今は迷っている身だ、だから修行しなければならない」
という考え方は誤りなのです。
妙心寺の御開山、関山国師が最後にこういうお言葉を残して居られます。
「本有円成仏(ほんゆうえんじょうぶつ)なんとしてか迷倒の衆生となる」と。
一切の衆生は円かなる仏であり、欠けた処も無ければ、余っている処も無い、
本当に全てのものが完全なものであるのに、何故迷っている衆生になったのか
という意味です。
「迷倒」というのは迷い逆様ということです。
本当に仏法を信じなければ、そういう疑団は出て来ません。
これは有名な「公案」です。
ですから、仕事の時は、仕事に成り切ることです。
何の様に「仕事に成り切る」かというと、「仕事を忘れる」ということです。
何かを求めるようなことがあってはいけないのです。
仕事の時は仕事を忘れることが必要なことなのです。
私たち衆生は、その場その時のことに自分を忘れて一所懸命に成る意外にないのです。
いくら自分が「悟った、空に成った、無に成った」といっても、
それだけ「不必要なことを知(識)った」訳です。
それを「悟りの病」といいます。
本来、迷っている人は一人もいないのです。
ですから「悟り」というものがあってはならないということです。
しかし、それを修行によって悟ったというのは、
「悟りという病に変わっただけだ」ということです。