CORRESPONDANCES

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石井好子 シャンソン歌手 (3)

2010年07月23日 09時24分47秒 | 追悼:石井好子

石井好子さんは、多くのお友達のいるあちら側の世界に旅立たれた。
引き止める術も、そして行動も起こさなかった。後悔しても遅い。
新聞によると、病気は急に悪化したようだ。親族に看取られて、病院で。
そう、美しく旅立たれた。

石井好子さんの存在があるから、その眼差しを向けられていると言う思いがあるから、シャンソンのサイトやブログも頑張ってこれたような気がする。これから一体誰と、気楽に楽しくシャンソンの話をあれこれ、取りとめもなく自由にできるというのだろうか?私は人生の大きな柱を失ってしまった。石井好子さんにだけは、私のシャンソンに対する熱い思いが伝わっていたのだと思う。その一点でだけ、理解し合い繋がっていることが出来た。26,7年間、確かに長いけれど、その一点はか細い。

最初に「楽屋に来たら、バルバラ歌手の堀内美希を紹介してあげる」と言って下さった。行けばよかったのにこう言った。「不自然な会い方ではなく、必然があれば、必ず人生がどこかで、クロスする筈。それを信じて、会わないでおきましょう」と。
それが約束になった。石井好子さんも「会わない」ということを密かに楽しんでおられた。私はシャンソン歌手ではなく、しかも石井好子さんの日常には、決して存在しない観念的存在となることを選んだのだ。それでも、どうしたわけか、充分な身近さを感じることが出来た。お互いシャンソンを引き寄せているからだ。
もう一つ約束がある。お互いがお互いを知っていることを明らかにしない、ということ。無関係をよそおうことだ。これも、無名の私が「石井好子さんのお知り合い」という特別な立場を取りたくなかったから、私がお願いしたことだ。またそのほうが、なんでも気楽に話せる。観念的存在になることによって、儀礼的気兼ねを排除したかったのだ。
私には石井好子さんが見えるが、石井好子さんには私が見えない。けれども信頼があるから、言葉が充分機能するのだ。誤解があったことは、一度もなかったと私は思っている。後悔があるとすれば、二つの約束を破らなかったことだ。特に石井先生が病に臥されてからも、私は約束の言葉だけを何度も繰り返したことだ。

最後の葉書きにこう書いてあった。
「あなたにも会いたいのですが...」からだの調子がよくない、と。普通なら挨拶程度の言葉だけれど、二人の間ではこれは異常事態を意味する。2,3週間考えてから、せめて電話でもと思い、私は初めて思い切って自宅に電話をした。名前を言ったら、とりついでいただけた。
「いつもお手紙ありがとう」「腰の調子がおもわしくない」そうおっしゃったが、声にあまりに力がなくて、私はパニックに陥った。電話をかけたがために、これ以上体調が悪化してはいけない。早く電話を切らなければ、その思いにとらわれてすべての言葉が頭からも口からも消えてしまった。

・・・・・追記:2012年1月28日・・・・・
石井先生のCDを聞いていた。2年前の手帳を見ていた。電話をかけたのは6月と以前書いたような気がするが、5月6月7月で、ようやく一息ついたたったの一日は、7月14日だったことが手帳を見てわかった。とすると私が電話をしたのは7月14日の可能性が高い。亡くなられる3日前だ。7月初めから入院されていたとのことだったので、電話は6月と判断したのだけれど、自宅にかけた電話は病院に転送されたのかもしれない。そうだとすると、間違いなく7月14日だ。あまりにお声に力がなかったので、パニックに陥って早々と電話を切った。心配になり、その後2回手紙を書いたが、届いたのは、亡くなられた後かもしれない。そういえば、取次に少し時間がかかった。そして直感として「大変だ!」とお声を聴いて思った。
5月か6月か7月かもわからないのか、と言われそうだが、とにかくそれくらい人生の底辺に突き落とされて一人で必死に耐えていた、耐えるだけでなく、格闘していた、孤軍奮闘していた、多人数を相手に。そして、全身が崩れ落ちるような崖っぷっちの窮地を何度も体験していた。その真っ只中に石井先生は亡くなられたのだ。