CORRESPONDANCES

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Frehel

2013年09月01日 18時27分27秒 | 海外の放送

Du Caf’Conc’a la rive gauche
Fréhel
le mardi 30 juillet 2013


私は「望郷」を見ていないが、これを見たシャンソン・ファンなら必ずこのシーンを話題に出す。
Frehel dans Pepe le Moko
映画の中であまりにも自分にピッタリな役をやりすぎているからだ。それにしても、気の毒な太り方だ。望んで太っているわけではない。辛い人生の心の叫びが表面化したに過ぎない。
FREHEL - Où est-il donc
「モンマルトルの挽歌」
映画「望郷」を見た人から話は聞くが、このフレールを見た人で、生きている人はもはや数少ないだろう。見たい人はどうぞ、「望郷」fullでご覧ください。
Pépé Le Moko .望郷 You Tube: Full

Fréhelを知るためのペイジ
Frehelの人生に関しては葦原英了氏や永田文夫氏の著作で既に暗記するほど知っている。知らない人には、誠文堂新光社刊、永田文夫著、世界の名曲とレコード「シャンソン」をお薦めしておく。私の持っているものは昭和59年8月25日発行、定価2200円となっている。この本には歌手の人生や歌詞の意味だけではなく、シャンソンの歴史がかなり詳しく解説されている。この放送でもあらかた同じことを言っているが、フレールから抜粋するとこのようなことが書かれている。
ーしかし、ロベルティは彼女を食い物にしたあげく、ダミアという次のカモを見つけて去っていった。いっぽう、フレールの前にはモーリス・シュバリエが現れた。シュバリエに対するフレールの愛情は激しく真剣なものだったが、それがかえって彼にとっては重荷だったのかもしれない。シュバリエがミスタンゲットの許へ走り、破局が決定的になったとき、フレールは半狂乱の状態になり、自殺をはかった。ー
籔内久氏の「シャンソンのアーティストたち」ではこの部分、ーシュバリエを殺そうとしたが果たせずーと書いてある。永田氏の本からの引用を続ける。
ー1923年、フレールはパリに戻って奇跡的にカムバックする。(略)収入はとだえ、露天の八百屋の手伝いまでして糧を得た。そして1951年2月、モンマルトルのピギャール街にある安ホテルの一室で貧困のうちに世を去った。ー
映画のシーンといい、この解説といい、心潰れる人生だったようだが、背景の時代を考えると、フレールだけが特に不幸だったというわけではないだろう。それにフレールには劇場やスクリーンで活躍した栄光の時代もあったのだから。

さてFrance Musiqueの放送だが、今回も選曲がものたりない。何故なら私Bruxellesの大好きな「Comme un moineau」がないではないか!そこで、リンクを探してみた。
Fréhel - comme un moineau
Marie Paule Belle comme un moineau
Comme un Moineau - Berthe Sylva - 1925:
Piafの映画の中で、ルイ・ルプレに路上で歌っている小娘ピアフがスカウトされるシーンがあるが、あの時ピアフが歌っていたのがこの歌だった。
日本語のタイトルは「雀のように」、塚本邦雄氏が「薔薇色のゴリラ」で素晴らしい訳を付けておられるのでここでは省略する。シャンソンの中でも特筆すべき名曲だと思う。もうひとつ古い1974年のピアフの映画のレコードを持っている。そこではBetty Marsがこの歌を吹き替えて歌っている。
この人「初日の夜」のヒットもある力強い歌声の歌手なのだが、1989年2月、意外にも自宅の窓から飛び降りて44歳で自殺している。



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