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エルトゥールル号の遭難事件のお話

2009-09-28 05:15:17 | Weblog
ぜひ道徳のお話で使ってください

トルコの軍艦エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、訓練不足のオスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣されてくることになりました。
そして、1889年7月、イスタンブールを出港。数々の困難に遭いながらも、航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で熱烈な歓迎を受けつつ、11ヶ月をかけて翌1890年6月ようやく日本に到着した。横浜港に入港したエルトゥールル号、6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。

しかし、エルトゥールル号は出港以来、度重なる艦の老朽や物資・資金不足は限界に達していました。さらに、多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月になってようやく横浜出港の目処をつけ、帰国することになりました。日本側は遠洋航海に耐えない老朽ぶりをみ、台風の時期をやり過ごすようにと勧めました。しかし、、制止を振り切って帰路につきました。
このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された背景には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化ぶりが喧伝されてしまうことを恐れたのだと言われています。

そして、ついに悲劇の遭難事件を引き起しました。

和歌山県の先端に大島と言う島があります。そして、その島の東には灯台もあります。石造りでは日本でいちばん古い。明治3年(1870年)にできた樫野崎灯台です。今も断崖の上に建っています。

「びゅわーんびゅわーん」猛烈な風が灯台を打ちます。「どどどーんどどどーん」波が激しく断崖を打ちます。台風が大島を襲いました。明治23年9月16日の夜でした。

午後9時ごろ、 どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がしました。灯台守は、はっきっりとその爆発音を聞いきました。
「何か大変なことが起こらなければいいが」灯台守は胸騒ぎがしました。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえませんでした。

このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきました。全長76メートルもある船です。しかし、それがまるで板切れのように、風と波のカでどんどん近づいてきます。
あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ています。

「ぐぅぐぅわーん、ばりぱり、ばりばりばり」ついに、船は真っ二つに裂けました。その瞬間、エンジンに海水が入り、機関部に浸水し、水蒸気爆発を起したのです。この爆発音を灯台守が聞いたのでした。乗組員は海に放つ出され、波にさらわれました。またある者は自ら脱出しました。

真っ暗な荒れ狂う海です。どうすることもできません。波に運ばれるままでした。そして、岩にたたきつけられました。
一人の水兵が、海に放つ出されました。大波にさらわれて、岩にぶつかりました。意識を失い、岩場に打ち上げられました。
「息子よ、起きなさい」懐かしい母が耳元で囁いているようでした。
「お母さん」という自分の声で意識がもどりました。真っ暗な中で、灯台の光が見えました。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」そう思うと、急にカが湧いてきた。40メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどつ着いたのでした。

灯台守はこの人を見て驚きました。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然でした。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていました。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかりました。
「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆しました。
「あなたのお国はどこですか」
「……」
言葉が通じません。それで「万国信号書」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知りました。また、すぐに、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかりました。

「この乗組員たちを救うには人手がいる」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えました。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだしました。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げました。
灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいました。全員傷だらけでした。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのでした。この当時、樫野には50軒ばかりの家がありました。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りました。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えました。目をそむけたくなる光景でした。

村の男たちは泣きました。遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張っ裂けそうになりました。
「一人でも多く救ってあげたい」しかし、大多数は動きませんでした。
一人の男が叫びます。「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こしました。自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」
村の男たちは、我を忘れて温めていました。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号とわかりました。

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容されました。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんありませんでした。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれました。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活でした。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていました。

このような村落に、六十九名もの外国人が収容されました。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていきます。ついに食料が尽きました。台風で漁ができなかったからでした。

「もう食ぺさせてあげる物がない」
「どうしよう!」
一人の婦人が言います。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら……」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせました。こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのでした。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬りました。

このエルトゥールル号遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上されました。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされました。このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられました。

これだけでも、すごいお話ですが、このお話は生きています。
次のような、後日談語があります。
100年後イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事です。
イラクのサダム・フセインが、
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」
と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。
日本政府もすぐに自衛隊機を派遣しようと思いましたが、自衛隊機は法律の関係で派遣できない。日本航空に引き揚げ用のチャーター機を依頼するも「どうして自衛隊がいけないような危険な地域に、民間機が行かないといけないのか」となかなか決まりません。テヘラン空港に残されたのは、残る215人の日本人だけです。日本人はパニック状態になっていました。

時間は、刻一刻と過ぎていきます。あろうことかイランがイラクの首都バグダッドへのミサイル爆撃を始めてしまいました。
事態はますます悪化しました。この時,バグダッドでは二人の日本人がすでに負傷しています

日本航空がようやく成田空港に準備しましたが、日本の外務省とイランの日本大使館や在留邦人会との打合せが遅れ,タイムリミット前に救出する時刻に間に合わない事態となりました。
そこで、日本航空は「帰る際の安全が保証されない」と,テヘランへ飛ぶのを諦めました。

そこへ、突如日本政府に次のような連絡が入りました。
「トルコ航空機の200席を日本人に割り当てます。利用してください。」

そして、2機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの1時間15分前であった。

なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも分かりませんでした。

駐日トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏は平成7年1月の産経新聞で次のように述べています。
「悲劇ではあったが,この事件は日本との民間レベルの友好関係の始まりでもあった。
この時,乗組員中六百人近くが死亡した。しかし,約七十人は地元民に救助された。
手厚い看護を受け,その後,日本の船で無事トルコに帰国している。
当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ,遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。
エルトゥールル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され,私も幼いころに学校で学んだ。
子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。」 (「産経新聞」平成7年1月9日)
トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。しかし、この事件のことを知らないのは日本人だけです。

特に2002年のサッカーFIFAワールドカップ日韓大会でのトルコチームの3位という大活躍を機に盛んにテレビ番組や雑誌でも取り上げられるようになりました。
そして、日本の一般の人々の間に徐々に広まっています。
この時からテレビや雑誌でも「日本とトルコの友好」について取り上げられるようになりエルトゥールル号のエピソードも広まっていったようです。ちなみに、ユニホームが記念には串本町に贈られ、トルコ記念記念館に掲示されています。

2004年には、これらのことを紹介した児童書が小学生高学年向けの読書感想文コンクール課題図書ともなった。こうして今では、日本でもエルトゥールル号遭難事件は「親日国トルコ」のイメージを語るエピソードとしてなくてはならないものになっています。

ホームページに写真付で掲載しました。
http://www.katch.ne.jp/~k-kami/


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