コーチkazuの「夢が実現!」 http://www.katch.ne.jp/~k-kami/

コーチ日本1のkazuさんが満を持してブログに登場!教育コーチを日本に広めた第一人者として、東奔西走しています。

結果が悪ければ「理解と共感」、成果には「期待とほめ言葉」を

2015-05-30 06:15:32 | Weblog
承認というと、
「よしいいぞ」とハンコを押すようなイメージがあるでしょうが、
良くないことを事失として受け止めるのも承認です。

「パソコンが動かなくて、期日までにできなかったんだな」

良いとか思いという判断をする前に、
相手が伝えようとしたメッセージを正確に受け止めること。
これが一番基本的な「理解」という承認です。

こういう人は表現力が足りない場合も多いので、
最初に言ったことが言葉足らずかもしれません。
まず言葉の意味を確認して、
理解してあげることです。
それによって相手が話しやすくなり、
より正確な情報を引き出す環境づくりができます。

M君の什事の遅れが、明らかに不可抗力だったとしましょう。
「昨日の朝、急に会議に出ることになって、
夜まで作業をすることができませんでした」
それがなければ確実に終えられた仕事であれば、
「部長の意向で決まったことだから、どうしようもなかったな」
というように、
まずは気持ちをわかってあげましょう。
やり終えるつもりだったけれど、
どうしようもなかったというM君の無念に、
「共感」してあげる、ということです。

この共感には、
事実をそのまま認識する「理解」も含まれ、
さらにその人の状況に共感しています。

次に、もっとM君ががんばった場合です。
「すいません。ミスを発見し、
修正に時間がかかって、
企画がまだできていません。
昼までには終わると思いますが」
こういう状況であれば、
まず成果の部分に日を向けてあげましょう。

「それが終われば完了か。
手間のかかる仕事だったけど、
よくやったな。
それでは昼までラストスパートだ。
終わったら報告してくれ」

ここには事実の「理解」、
がんばったことへの「共感」、
さらに成果に対する「期待」が込められています。
より高いレベルの承認で、
ここまでくるとM君も多少は達成感を持つようになります。

マラソンの40キロ地点で、
期待したよりも遅れて来たランナーに、
コーチはどう声をかけるでしょう?
「なにやってんだ、遅いじやないかバカヤロウ」
とは言わないでしょう。
たとえ予想に反する状況でも、
今までのがんばりを認め、
励まし、ゴールに向けて力づけます。
期待を込めたメッセージが、
相手の力を呼び起こします。

「サボる人に合わせたルール」と「頑張る人に合わせたルール」

2015-05-29 06:00:17 | Weblog
組織の中で、
秩序を保つにはルール作りが必要なのは言うまでもありません。
このルールには
「サボる人に合わせたルール」と「頑張る人に合わせたルール」
があるのをご存知でしょうか?

たとえば、
アメリカの大リーグ、
ニューヨーク・メッツでコーチも務めた立花龍司さんが
こんなことを話していました。

「日本では、さぼる人に合わせて練習メニューを組んでいる。
アメリカは、自分で努力する人に合わせて練習メニューを組んでいる。
まったく対照的ですね」
キャンプインとともに厳しい練習に明け暮れる日本のチームに比べて、
メジャーの各球団は、
選手の家族が周囲をウロチョロしていたしています。
メジャーのキャンプで練習時間が短いのは、
キャンプインの段階までに、
選手が各自で基礎トレーニングを積み、
ゲームの勘をつかむ実戦練習に入れるコンディションに
なっているからだそうです。

日本のプロ野球選手たちも、
キャンプ前に基礎トレーニングをしています。
いわゆる「自主トレ」です。
しかしキャンプインと同時に、
また自主トレと同じような体力づくり的な練習を始めます。
これは指導者たちの間に、
自主トレでは十分なことができていない
という認識があるからでしょう。

このことを指して立花さんは、
日本のプロ野球チームは、
「さぼる人に合わせている」
と言うわけです。
対してメジャーには、
「自分で準備してくるのが当たり前」で、
準備ができていなければキャンプに入れない、
という暗黙の了解があります。

人間には、
進んで努力する面もあれば、
さぼる面もあります。
どちらが本当の人間だと、
決めるのは難しいものです。

アメリカの経営学者のダグラス・マグレガーが唱えた
X理論(「性悪説」的な人間観)と
Y理論(「性善説」的な人間観)の考え方もまさに同じです。

人間はさぼる習性があるから、
お尻を叩いて管理しなければいけない(X理論)

間は前何きに行動する習性があるから、
信じて任せたほうがうまくいく(Y理論)

長所に目を向けて相手の力を引き出すということは、
相手の可能性を信じるということです。
つまりこれは性善説に立つ考え方です。

外に向かっては、周囲をほめるのが鉄則

2015-05-28 06:20:18 | Weblog
いくら仲がよくても
たまには夫婦喧嘩をしたりしますね。

そして、
家のなかではいっさい口をきかなくても、
いったん連れ立って外に出るや、
互いにとりつくるって、
普段通りにふるまうのが常識です。

他人の前で堂々と夫婦がイガみあったりすれば、
これはもうかなりの重症ですね。

外にまで内輪もめを披露し、
互いに罵倒を浴びせ合うのは常識人ではありません。


これはどういうことか?というと、
やはり人前では身内に恥をかかせたくないという思いやりが
人間のこころにあるからです。

ビジネスの世界でも同じことです。

別に上司と部下が仲違いしているわけではありません。
しかし会社にいるときは、
上司部下を問わず、
美点よりも欠点ばかりが見えてしまう人もいます。

そして
何かの折りにその人と同じ会議に参加することになった時など
「うちの部長、こう見えてもなかなか面倒みのいい人でしてね。
社内でも評判なんです。
ですから今度の共同プロジェクトの役員としては最適だと思います」
などと持ち上げると、
上司のほうも、
「うん、こいつ、ちゃんとオレの見るべきところは見ているな」
と心のうちではうれしがるものである。
多少誇張してほめても許される場というものがあります。

外の場面では自分の上司の美点を称賛するのは
そう不自然なことではありません。

だいたい人間というものは、
いくら夫婦喧嘩をしていても、
他人に連れ合いの悪口を言われるといい気持ちがしないものです。

落語「厩火事」にこんなのがあります
亭主の八ッつぁんの飲んだくれに愛想をつかした女房が、
別れたいと実兄のところへ相談に行く。
すると兄貴がなだめるどころか一緒になって、
兄「別れたほうがいいよ、ほんとうに・・・。
えぇ、まぁ、しようがねぇじゃぁねぇか。
酒ばかり飲んでやがってな・・・」
などと妹の亭主の悪口を言うと、
女「酒ばかり飲んでやがって・・・、
兄さん、いうけどもね、
飲むったって、
別に・・・度に一斗樽あげてしまうわけではないしね、
あたしが働いて、
あの人に飲ませてるんだから、
別に、兄さんにお銭出してもらっているわけじゃなし・・・・・・
大きなお世話でしょう」
となるのが人情である。

外に向かっては妻を、
夫を、上司をほめるを鉄則にしたいものですね。

見返りを求めない

2015-05-27 04:52:52 | Weblog
先日、叔父の法事がありました。
住職はよく法話をされますが
布施についての話がありました。

布施というと、
ふつうはお寺などに何がしかの金品を差し出すことをいいますが、
もともとの意味は「与える」ということで、
何を与えてもよいとのことでした。
物や金に限らず、
優しいことば、
思いやり、
親切心、
何でもいいから与えることを布施といいます。

とくに相手に喜ばれることば、
慈悲に満ちたことばをかけることを
仏教では「愛語」と言うそうです。

以前にこんなことも聴いたこともありますが

人は面と向かってほめられると顔がほころびます。
また、他人経由でほめことばをもらうと
よけい心にしみます。
さらに
ほめことばには天をも動かす力があります。

そして、見返りを求めるような布施はダメだと言います。
報酬をあてに他人をほめても、
布施によって本来得られる
宗教的清浄な喜びは得られないようです。

見返りを求めないほめことばが、
他人を動かすだけでなく、
自分のこころにも喜びを生み出すものが、
本物のほめことばなのです。

布施の考え方には
このような宗教思想に根づいたものです。

こころからのほめことばだけが
自分の内面を広くし、
楽しい気分にさせる作用をもつと
仏教は教えています。


沈黙も立派なほめ言葉

2015-05-26 05:45:39 | Weblog
「目は口ほどにものを言い」といいます。

どんなに口で上手にほめても、
顔の表情、声の調子、姿勢や動作などから、
それが単なるうわべだけのほめ言葉にすぎないと
すぐわかってしまいます。

休日のホームドラマ風に表現すると

新しい髪型に変えたばかりの妻が静かに夫のそばに座ります。
「どう、似合うかしら?」
夫はテレビの野球中継に夢中です。
こころは毎日野球ばかり。
ちらっと妻のほうを見る。
なんだこりゃ、七福神の弁天様みたいな髪型だなと一瞬思う。
そして「うん、とってもいいよ」と返事をします。
そして妻は突然泣きだします。
「あなたは、私のこと、ちっともかまってくれない」・・・・・・

この場面がリアリティのあるシーンになるかどうかは
実はひとえに俳優さんの演技力にかかっています。
セリフの中身より、視線、声の大きさ、抑揚、身ぶりで
どれだけ真実味を出せるかがこの場面の決め手だからです。

一方、同じ非言語的メッセージですが、
沈黙が感動を与えることもあります。

ふつう、私たちは沈黙というのは
気まずい時間をつくるものだと思っています。
しかし時にはそれがほめことばになることだってあります。

ある高名な作家の未亡人が、
亡夫の愛したお寺に招かれました。
亡き作家を慕う人たちの前で挨拶に立った未亡人は、
壇上で胸が詰まり、声が出なません。

しばらくじっと黙っていた。1分、2分、3分……と過ぎます。
最初は怪訝に思っていた人たちも、
やがてその沈黙の意味を理解します。
そして一言もしゃべらずに壇上を下りた未亡人に
共感の長い拍手が続いきました。
ここでは、沈黙が亡き夫に対する最大の供養というか、
立派なほめ言葉になっています。

ドイツの思想家マックス・ピカートに
『沈黙の世界』(みすず書房)という名著があります。

沈黙は言葉の欠如ではなく、
充実だと説くユニークな本です。

音楽会で演奏者が楽器を手にして身構えると、
客席のざわめきが止み、
水を打ったように静まりかえります。
緊張と期待。
沈黙の一瞬。
その沈黙の瞬間から、
すでにコンサートは始まっているのです。

「沈黙の湖上にただよう一片の明るい雲」、
それが言葉なのだとビカートは書いています。

だから私たちも、
沈黙だってほめことばを奏でることがあるのだということを
忘れないでいたいものです。



「がんばれ」と「ほめる」の違い

2015-05-25 05:51:59 | Weblog
人をはげますとき、
私たちは「がんばれよ」ということばをよく使います。

しかしこのことば、
ほめことばではありません。

相田みつをきんの日めくり力レンダーに、
こんな言葉があります。

アノネがんばんなくても
いいからさ具体的に動くことだね
         みつを

日本人は「がんばれよ」ということばが好きです。
一日に何回も使います。
朝、子供が学校に行くとき「がんばれよ」と親が言い、
出社する夫に妻が「がんばってね」と言って送りだします。
会社では上司が部下に「がんばれ」と言い、
社長が社員に「がんばってほしい」と訓示します。

とにかくがんばれ、がんばれの大合唱です。

ただこのことば、
これから試験に臨む受験生とか、
試合を前にしたスポーツ選手とか、
あるいは運動会で懸命に走っているわが子に向かって言うのなら、
目前に具体的事実があるゆえ迫力があります、
新婚旅行に旅立とうとしている新郎新婦に
「がんばってねぇ!」と大声を上げて見送っても、
何をどうがんばればいいのか、
今一つ、よくわかりません。

『広辞苑』を引くと、
「頑張る」の語源は「我に張る」から転じたもので、
一説には「眼張る」ことだと書いてあります。

つまりそこから連想されるものは、
眼をつり上げて我意を張り通すという、
日本人好みの精神性高揚を促すイメージで、
あまり具体性が要求されることばではないようです。

その点、ほめる場合は、
「がんばれ」と違って具体的なものがないと
ほめたことにはなりません。
「きみは、実にいい人間だね」
と言ってほめられても、
言われたほうはきょとんとしてしまいます。
ほめるには何をほめるのか、
具体性が必要です。

上手なほめ方とは、
どこが、どういう点で素晴らしいのか、
明確に指示することです。

別のことばで言えば、
「がんばれ」というときは、
こっちの主観的な希望や願望を相手に押しつけるときだけです。

だがほめる場合は、
相手のどの点に期待しているのか、
客観的にきちんと伝えるべきです。

つまり相手の立場に立った上でのコミュニケーション
でなければなりません。

ということは、
ほめるにはそれだけの観察力が
こちら側に備わっていなければならないということです。

ただ「がんばれ、がんばれ」と言うだけでは、
相手のこころを動かせません。


自分を殺す「マイナスの暗示」

2015-05-22 06:16:43 | Weblog
どんなに健康な人だって、
「顔色が悪いよ」と言われ続けると、
本当に病気になるそうです。
これは「マイナスの暗示」といって、
人の可能性を殺す最高のテクニックです。

親が子どもに「きっとできないけど、とりえずやってごらん」と励ますのも、
上可が部下に「失敗して元々だから、チャレンジしてみろ」と言うのも
同じです。

でも、結果は必ず失敗します。
タチが悪いのは、
これに必ず「プラスの暗示」を装っていることです。

もっともらしく励まし、
心配し、
残念がる背後には、
悪魔が笑って立っています。

そしてもっと恐いのは、
本人がそれに気づかずに話していることです。

ところで、
これに似たのに「反対言葉」があります。
たとえば相手が「面白いことを発見した」と元気に話しだすと、
それを粉々に粉砕するために、
すかさず「そうかな」と言いながら、
いちいち反対の事例や反対の言葉で返す方法です。
何気ない会話でさえ、
口を開くたびに相手から
「同調できない理由」が返ってきたら、
誰でも最後にはイヤになります。

しかしこの「反対言葉」は
かなり幼稚な方法で、
相手を殺す効果はほとんどなく、
逆に自分が死んでしまいます。

というのは、
相手の言葉がプラスの要素を持てば持つほど、
それを粉砕するために自分の言葉はマイナスさを必要とし、

それを思いつくために、
自分の頭は「マイナス言葉」でいっぱいになってしまうからです。

そしていちばん悲しいのは、
そのうちだれもプラスの言葉をしゃべってくれなくなるということです。

そしてこれは付録だが、
最初から話にならないのが「茶化し」です。

たとえば、
この原稿を書いていると
「おっ!100万部ベストセラー」といった風に
茶化してくる人たちです。

茶菓子を食べる間柄なら茶化しも楽しいが、
そうでない人からの茶化しは、
相手の拒否反応であろう。

学校の成績が良い子供の親をつかまえて、
「末は博士か大臣か?」と笑うのも似たようなものです。

人は褒め言葉に飢えている

2015-05-21 06:12:14 | Weblog
大人の社会では、
ほめる目的をしっかりもってほめることが大切です。

大人の社会では、
相手を立てるべきときは立てるのがマナーなのです。

人をほめたり、
叱ったりするのは、
そうすることによって
相手の気持ちを奮い立たせたり、
やる気を起こさせたり、
反省させたりするためです。

ほめられることで、
その人が仕事に自信をもち、
仕事に意欲的になってもらえれば、
ほめる目的も達せられるというものです。

私の近くのコンビニの女性店員は、
実に愛想がよろしくない。

いつもの客だというのに、
態度もつっけんどんだし、
笑顔ひとつしない。

もう少し何とかならないのかといつも思います。
そこでたまたま店長さんと、
何かの折り、それとなく話し、
ひとつ注意してみてはどうかとよけいなことを話題にした。
後日、そのコンビニを訪ねて驚きました。
あの女性店員、
以前とは打って変わって愛想がいいのです。

にこにこしながら、
最近出た新商品を「いかがですか」と言ってすすめてきます。
この変わりように
「やはり注意してよかったですね」と言ったら、
主人が笑って返してきました。

「いまの若い人は、注意したり叱ったりしようものなら、
ぷいっと辞めちゃいますからね。注意したんじゃありませんよ。
むしろ逆に、『おたくの店員きんは美人で親切で、商売上手だね』と、
あなたがたいへんほめていたって言っただけです」

客にほめられただけで、
親切心が起こるとは、
いかにほめることが人の気持ちをなごやかにし、
優しくするかということです。

それだけ、
いまはほめことばに飢えている人が多いのでしょうか。

「働かせる」より「遊ばせる」

2015-05-20 06:10:54 | Weblog
どんな組織でも言えますが、
リーダーが自分の立場を意識しすぎると
過剰な義務感が生まれ、そこからくる気負いや勘違い、
緊張などが原因で、
自分だけでなく組織全体の力を充分に引き出せずに
終わってしまうことがあります。

私の周辺にも多くのグループや組織があり、
やはりその中のいくつかは、
義務感や使命感で頭がいっぱいになったリーダーが、
ただ一人でしゃかりきになって頑張っています。

メンバーの誰もが、
そんな義務感などリーダーに望んでおらず、
「いかに自分たちを楽しく遊ばせてくれるだろうか」
という程度のことしか考えていないのに。

あまり聞き慣れない考え方かもしれませんが、
もしリーダーに義務があるとすれば、
それは「メンバーをいかに楽しく遊ばせるか」の一言に尽きるでしょう。

楽しく遊ばせるというのは、
いわば公園で親が子供を遊ばせているようなものです。

危険なこと以外は頭ごなしの命令をせず、
ほったらかしにしておくことです。

これに力を注ぐと
子どもは不平や不満を言わずに自由に動きます。
なぜならここでの主人公は親ではなく子どもだからです。

これに「こうすればもっと楽しいよ」と一言添えれば、
子どもはもっと楽しそうにはしゃぎ回るでしょう。

親は子どもが楽しんでいる姿をただじっと見ているだけです。
これがリーダーが組織を上手に運営するための基本です。

ところがこれがわからない親は子どもを引き回します。
親に引き回されて育った子どもがどんな大人になるか、
考えただけでもゾッとしますが、
こんな親子の関係は案外に多いものです。

手で引き回し、
口でも引き回します。

リーダーは、
どんないきさつで選ばれたとしても、
選ばれたからには組織の親です。

公園でベンチに座り、
全体を見渡しながら子どもを楽しく遊ばせ、
安全だけに注意を払うことのほうが、
義務感でたえず先頭に立ちながら、
前と後ろを交互に見るよりよほど楽である。
それに本来、
人は大人になっても遊ぶことのほうが好きなものなのです。


やれることを見つける方法

2015-05-19 06:52:15 | Weblog
やりたいと思っていること
やった方がいいと思っていること
やらねばならないことが、
たくさんあるのになかなかできない。

なぜできないか?

その理由をずばり言うなら
「プライドが高いから」です。

「やってみる」という意味では、
「やれること」の価値はすべて同じ平面上にあり、
数字で表すならどれも価値は「ゼロ」です。

靴磨きも、
ティッシュ配布も、
奉仕活動をするのも、
英会話を習うのも、
そして超能力を信じてスプーンを握ってみるのも、
はき物をそろえるのも、
行為の価値は人が決めるのであって、
それ自体には何の価値もありません。

「やれること」はすべて同一平面上に並んでいます。

しかしそれを実行できる人と
できない人とがいるのはなぜか?

その原因は先ほど言ったように「プライド」です。

プライドが高ければ高いほど
「やれること」から遠ざかります。

だから「やれること」に手が届かないのです。

プライドが高い人にとって
失敗は「落ちること」を意味しています。

落ちるのが恐いから、
今まで落ちた経験がないから、
最初から何もやらないほうを選びます。

笑われるのを恥ずかしいと思うと
カラオケのマイクを握れないようなものです。

「やれること」に自分を合わせたら
何でもできるのに、
自分に「やれること」を合わせようとするから
できることが少なくなるのです。

また、「高学歴」=「プライドの高さ」ではありません、
「無知」=「プライドの低さ」でもありません。

どんなことでも一度試してみたらいい。

プライドさえなくしたら、
同じ場所、同じ時間に
「自分がやれること」を山ほど発見することができます。