誰でも少しくらい劣った部分がありますが
それは一部であり、
全体ではありません。
私は10歳頃から20歳くらいまでの間
落ちこぼれ地獄から抜けられませんでした。
周囲を見ても
例えば東大生でも落ちこぼれ意識を持っている人がいます。
落ちこぼれ意識とは、
自分の中のある部分を他の人々の平均水準と比べて、
劣っていると思った場合に、
そこに発生する感情だからです。
東大生であっても、
比較の対象は同じ東大生が平均レベルの人々となり、
学問や容姿や話し方でその平均的レベルに自分が達していなければ、
大いに悩むことになります。
また、学力や成績面では高水準であっても、
「内気なために異性と付き合えない自分なのだ…」のような
自己分析が出てくれば、
落ちこぼれ意識は湧いてくるのです。
そうして、
あらゆる点ですべて平均以上という人は
地上にいないし、
人は何らかの点で他に比べれば劣っている存在となってしまうので、
その劣った点のみを過大に考え込んで思い悩んでしまいます。
これは、
他の学校でも、
会社でも、
だいたい同じような人が集まりますので
現れてしまう現象になります。
しかし、
ここで考えなくてはならぬことは、
落ちこぼれには
「部分の落ちこぼれ」と、
「全体、つまり人間としての落ちこぼれ」
の二つがあるということです。
前者について言うなら、
多くの人が平均値に達していないという発見により、
落ちこぼれ意識を持ちます。
それが次第に膨らんでいくと、
遂に「自分は人間としての落ちこぼれた」
という後者の結論に到るものです。
だが、
人が他人と自己を比較するに値する点は百も二百もあります。
一つやニつの
「レベル以下」の発見によって、
遂には人間そのものの不合格と自己採点するのは、
どう考えてもおかしいことです。
それは一部であり、
全体ではありません。
私は10歳頃から20歳くらいまでの間
落ちこぼれ地獄から抜けられませんでした。
周囲を見ても
例えば東大生でも落ちこぼれ意識を持っている人がいます。
落ちこぼれ意識とは、
自分の中のある部分を他の人々の平均水準と比べて、
劣っていると思った場合に、
そこに発生する感情だからです。
東大生であっても、
比較の対象は同じ東大生が平均レベルの人々となり、
学問や容姿や話し方でその平均的レベルに自分が達していなければ、
大いに悩むことになります。
また、学力や成績面では高水準であっても、
「内気なために異性と付き合えない自分なのだ…」のような
自己分析が出てくれば、
落ちこぼれ意識は湧いてくるのです。
そうして、
あらゆる点ですべて平均以上という人は
地上にいないし、
人は何らかの点で他に比べれば劣っている存在となってしまうので、
その劣った点のみを過大に考え込んで思い悩んでしまいます。
これは、
他の学校でも、
会社でも、
だいたい同じような人が集まりますので
現れてしまう現象になります。
しかし、
ここで考えなくてはならぬことは、
落ちこぼれには
「部分の落ちこぼれ」と、
「全体、つまり人間としての落ちこぼれ」
の二つがあるということです。
前者について言うなら、
多くの人が平均値に達していないという発見により、
落ちこぼれ意識を持ちます。
それが次第に膨らんでいくと、
遂に「自分は人間としての落ちこぼれた」
という後者の結論に到るものです。
だが、
人が他人と自己を比較するに値する点は百も二百もあります。
一つやニつの
「レベル以下」の発見によって、
遂には人間そのものの不合格と自己採点するのは、
どう考えてもおかしいことです。