夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

月次の会・十月 (その1)

2014-10-31 23:22:51 | 短歌
月いちの歌会に参加するので、夜、時雨の降る中を、駅前にある結社の事務所へと急ぐ。
ハロウィンなので、駅前広場には、思い思いの扮装をした若者たちが大勢集まり、異様な熱気を放っていた。
仮装は自己満足なのだろうから、ほうっておくにしても、いい年した若いのが通行人に菓子をねだるのは、ちと見苦しくないか。


さて、歌会には先生の他に10名が参加していた。始まる前、この歌会にも時々出席されていた同人の方が、先日亡くなられた話題になる。
もうすぐ出る結社の歌誌に、先生の娘さんが追悼の歌を連作で詠んでいるということを聞いた。

私はこのところ、怠惰ゆえ歌作から遠ざかっており、先日、岡山駅に新幹線の切符を買いに行ったとき、たまたま心に浮かんだ二首を持って行った。

(提出歌)
  窓口にて「のぞみ」の切符を買ふ間にもはや京都へと心は躍る
(添削後)
  岡山にて「のぞみ」の切符を買ひながら心は躍るはやも京都へ

先日、学会で京都まで行きながら、大型台風の接近で、観光もできずに帰ってきたのが悔しく、後日必ず行き直そうと思っている。
ただの思いつきの歌であるにもかかわらず、参加者の方からは、「京都へとはやる気持ちがよく伝わる。」、「やはり京都は特別ですよね。」などと言っていただいた。

(提出歌)
  おもかげにまだ見ぬ峰のもみぢ葉はもとな見えつつ今日も暮らしぬ
(添削後)
  おもかげにいまだ見ぬ峰のもみぢゆゑもとな見えつつ今日も暮れゆく

参加者の方からは、第四句の「もとな」という言葉について質問や意見が集中した。
これは、先生が説明してくださったように、根拠の意味の「もと」に「無し」の「な」が付いたもので、わけもなく、むやみに、しきりに、の意味。
『万葉集』によく出てくる言葉なので、なんとなく覚えていたのを、深い考えもなしに使ってしまったが、先生は現代の短歌でも許容されるという判断らしい。

京都に行くと決めて以来、最近急に寒くなってきたから、あちらでは紅葉がどれだけ進んでいるだろう、嵐山は、東山は、など、一日中考えるようになってしまった。美しく色づいた紅葉の映像が、むやみに目の前にちらついて、仕事も手に付かない状態なのを詠んでみたのである。
もとの提出歌は、私がまだ目にしていない京都の紅葉の光景を想像しているだけの歌である。
しかし、添削後の歌は、まだ目にしていないからこそ、紅葉の面影がこんなにも浮かび、そのまま一日も終わってしまうほどの執心を歌っていることになる。
本来なら、意味の上では、「いまだ見ぬ峰のもみぢゆゑ―おもかげに―もとな見えつつ」となるべきところだが、語順を先のように表現していることで、歌に屈折感が生まれ、複雑な味わいで余韻の感じられる歌になっている。初句がそのまま第二、三句に連接せず、それらをまたいで第四句にかかる、やや不自然な係り受けなのだが、現代短歌でもこういう詠み方もできるのか(古典和歌では時々ある)と、しきりに感心してしまった。

【感想】
今回、先生の○は一首目についていたが、今読み返すと、やはり二首目の、添削後の歌の方が興味深い。
わずかに字句を変えただけにしか見えなくても、実際は、先生は歌の発想の次元から、この内容ならこう詠むべきと、もっと高い所でその歌を捉えている。
私はまだ、自分の歌を詠むのに精一杯で、他人の歌のよしあしを評価したり、ましてや作者の意図を踏まえた上で添削するところまではいかないので、このような歌会の機会を通して〈歌の見方〉を教わっていることが、何にも代え難い貴重な経験であるように思われる。