夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

月次の会・七月

2014-07-25 23:23:35 | 短歌
先月に続き、地域の短歌会の月例会に出席。今回も先生の他に12名が参加。
先生の『百人一首』講読は、小式部内侍(こしきぶのないし)の、

  大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立

の歌について。

先生は、非常に手のこんだ歌で、十四、五歳(と推定されている)の少女がとっさに詠んだ歌とは思えないほどすばらしい、と称賛しておられた。
また、『百人一首』の中でも最も親しまれている歌の一つであり、小式部内侍がこの歌を詠んだ経緯が説話化され、美化・誇張されていくことについてもお話があった。そういえば昨年、古文の授業で『十訓抄』所収の「大江山」の話を教えたことがあったな。

先生は、小式部内侍は、美貌と才能を兼ね備えた相当すごい女性で感心するしかない、古代の宮廷は一握りの人たちだけのサロンだったが、その中で激しく競い合うから、こうした才女が次々に現れたのだろう、という内容のことを言っておられた。

その後は、例によって一人ずつ、出席者の詠草の披露、参加者による合評、先生の添削。
今回の私の歌は、先週末、夕立ちで激しい雷雨になったときのことを詠んだもの。
(提出歌)
  梅雨明けはまだも来ぬかと雷雲の下にうごめく積雲の群れ
(添削後)
  梅雨明けはいまだ来ぬかと雷雲の下にうごめく雲を見てゐる

参加者の方からは、「『梅雨明けはまだも来ぬか』と思っているのは、ちかさださんのはずなのに、雲を見ている『我』という表現がないのは、違和感を覚える」という内容のことを指摘された。
これは、私が古典和歌の発想と表現にあまりに慣れすぎているため、しばしばやらかすことである。
この歌を詠んだときは、雷を鳴らす真っ黒な雨雲の下に、夏の積乱雲の卵のような雲たちがたくさんうごめいていて、それがまるで、梅雨空を早く引き退かせ、自分たちが夏空を支配する機を窺っているような、不穏な光景に見えたのだ。しかし、その景色を言葉に写し取れば能事足れりと思っていたのは、自分の浅はかさであった。
やはり現代短歌は「我」の文学なのであり、〈今ここにある自分〉を閑却して詠んでもうまくいかないことを痛感した。

(提出歌)
  層雲に茜の光映りたり夕立ち過ぐるなごりの空に
(添削後)
  層雲に茜のなごり映りをり夕立ち過ぐるたそがれの空

参加者の方からは、景色としては浮かぶのだが、「夕立ち」の「なごりの空」というのがちょっとわかりづらいということを言われた。
夕立ちがおさまった後も、大気の状態がまだ不安定で、その余韻をとどめている空と雲の様子をこう表現したのですが…とは説明したが、確かに、夕立ちの後に空に残るもの、といわれてもイメージするのは難しかったかもしれない。
先生が添削してくださったように、夕立ちの後の空は晴れて、日没後もしばらくは、空に層状に広がった雲に夕日の赤の名残が映っている、とした方が、表現としてはずっとよい。

【感想】
先生は、二首目の歌に丸をつけ、「『たそがれの空』で(体言止めとして)終わると、新古今風だがな。(笑)。」と言って、にっこりしておられた。
いつもながら、先生の添削の冴えはすごいと思った。
また、この会の参加者の方々は、合評のときにどんどん自分の意見や感想、批評を表明される。私も気づかないような用字の誤りや表現上の矛盾なども、次々に指摘される。とはいえ、ギスギスした雰囲気にはならず、冗談や笑いも交えながら、素敵な緊張感のある歌会だった。