LE REGARD D'ALAIN DELON

アラン・ドロンさんの魅力を探ります。

『LE CHOC』 (3)

2010-01-10 | THE SOUNDTRACKS
ご挨拶が大変遅くなりましたが皆様本年もよろしくお願い申し上げます。

今年の第1回目は、昨年11月にユニバーサルから発売された『最後の標的』サントラ盤のライナー・ノーツの翻訳です。
長いのでまだ前半しかできておりませんが取り急ぎご紹介します。

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"映画音楽という分野においてはフィリップ・サルドという作曲家ほど
監督に対して最善の話し方をする人物はいないであろう。"

"フィリップ・サルドにはこのような巨大な才能があるんだ:
彼と話していると自分は世界最高の監督で最も感性が鋭く知的なフィルムメーカーであるという気にさせてくれるんだ。
彼はその才能のおかげで、映画史の中でも最も美しいスコアを書くことができる。
率直に言って、これは最も心強いことさ。
なぜなら、映画監督というものは俳優たちも含めて、映画製作の過程において非常に多くの落とし穴を回避しなければならない:
時間と戦い、資金をやりくりしながら映画を終わらせていかねばならない...
それらのことにすっかりくたびれているときにサルドがやってくると、
まるで日焼け後にサンローションを塗ったかのように癒されるんだ。"

この言葉は、監督のロヴァン・ダヴィが1982年に初めてサルドと仕事を共にした作品『最後の標的』において
彼の重要な共犯者(=フィリップ・サルド)について表現したものである。
この映画を撮影するまでの10年間、彼らは友人同士であった。
それはちょうどサルドが初めてジョルジュ・ロートネル監督の作品(“La Valise”)に参加したときからである。
その作品でロヴァン・ダヴィは秘書兼アシスタント及び第2班の監督として働いていたのだ。

"ロートネル監督のスタッフたちとは"と、サルドが回想する。
"ロヴァンはまるで家族の友人のような役割を担っていたよ。;
私自身も、同じ役割を果たしていた。私たちはよく日曜日にヌイイで会っていたよ。
そこには監督のジョルジュと彼の妻のキャロラインが住む家があったんだ。
それはまるで家族の集まりのような感じだったよ。ジョルジュが中心となった緊密なサークルのようなものだった。
私たちはそこで生活や映画、新しいプロジェクトについて語り合っていた...
本当に恵まれた環境にいたよ:その集まりでは本当にお互いに熱く語り合ったんだ。
ロヴァンと私二人にとってそれは30代のシンボルだったよ。"

それから2年経ってロヴァン・ダヴィはジョルジュ・ロートネルの保護の元から離れて、
彼の最初の映画作品Ce cher Victor (1975)を監督する。
この作品は『女王陛下のダイナマイト』のベルナール・ジェラールが音楽を担当した残酷な喜劇であった。
そして1979年のドライで神経質なスリラーLa guerre des polices (1979)(警察戦争)が大ヒットして、
ダヴィに監督のオファーが相次ぐようになる。

"突然に、"とダヴィは回想する。"私は新しいスリラーの専門家として注目を集めることになったよ。
Leboviciからは私にメスリーヌの“L'Instinct de mort”を作るよう言ってきたし、
ムヌーシュキンは私に“Garde a vue”を依頼してきた...
だが私はすべてをことわっていた。
そんなとき (プロデューサの)アラン・サルドとアラン・テルジアンが別のプランを持ってやってきた:
"あなたはドロンと一緒に映画を撮ろう!"

私はドロンとは彼が『愛人関係』を撮っていたころに面識は会ったが、近寄りがたい人物だと感じていた。
しかし、プロデュサーたちは執拗にせまってきた。:
"ドロンとの仕事であなたは一段高いレベルに上がれるんだよ!"とね。
私は彼らの言葉を信じるしかない弱い立場に立たされていた..."

フィリップ・サルドはダヴィのこの気持ちを代弁する:
"率直に言って、この業界というのは怖い:
私はとても親切で慈悲深い心を持つロヴァンがドロンと一緒に働いている姿を想像することができなかった。
アラン・ドロンは映画界のモンスターであり、彼は監督たちを死ぬほど震え上がらせてきた。
ロートネルもそのうちの一人だったよ。
『最後の標的』について言うと、ドロンはカトリーヌ・ドヌーブと共演していたが、
ここだけの話だが、プロットはそれほど映画界を揺るがすほどのものではなく、また新しいものでもなかった。"

ロヴァン・ダヴィに公平を期すために、
彼がプロデューサーたちから渡された脚本(ジャン・パトリック・マンシェットの小説“La Position du tireur couche”を翻案としたもの)は、
おびただしいほどの譲歩によって毒を抜かれたものになってしまっていた。
"マンシェットは自由主義の小説家で、無政府主義者だが、彼の独創的なアイデアの一つ一つは、
ドロンの個性に適応させるために犠牲にしなければならなかった"とダヴィは主張する。
私は虚無的なスリラーという視点を持たなければならなかったし、
ちょうどこれまでドロンの伝説で構築されてきた人間味の無い作品の撮影に自分の身が置かれていることに気付かされた。
撮影はかなり劇的なものになった...
そして何度も私はそこから出ていこうとした。
プロデューサーたちに預かった鍵を返そうとしたんだ...
だがそのたびにドロンは私を戻してくれたんだ、しかも、素敵な言葉を添えて:
"頑張ってくれ、ロヴァン、我々には君が必要なんだ!"

我々は、とてもハイテンションな状態で撮影を終了させた。
私はメイン・タイトルの前のシーンのためにドロンとマラケシュにさえ撮影に出かけて行った。
そして私は、もう自分のものではないこのプロジェクトのためにこれ以上戦う気力は失せてしまった。"

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